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2010/08/27

借りぐらしのアリエッティ

 宮崎駿企画・脚本(ほかに脚本・丹羽圭子)、米林宏昌監督の映画「借りぐらしのアリエッティ」を遅まきながら見た。(以下、ネタバレだらけ)

 物語は、空の雲を描いた一瞬の場面から始まる。その雲ですら、いつもの宮崎アニメの雲と違う過剰な感じがする。なぜだろうと疑問を引きずったまま、自動車での移動の場面になる。「千と千尋の神隠し」「崖の上のポニョ」などでお馴染みなので、宮崎アニメの定番だ。見る者を物語世界、異空間へ誘う役割を果たしている。米林監督作品とはいいながら、語り口は宮崎アニメなのである。

 貞子が運転するベンツがひっかかる。西洋趣味の一族で大金持ちであることを示す伏線なのだろうが、肝心のベンツが映像の中で浮いている。スタジオ・ジブリ独特の重力が感じられない。子どもが乗り降りするくらいであんなにベンツが上下するものなのだろうか。それは兎も角、アリエッティの登場する瞬間はいい。心臓の悪い男の子・翔が真っ先に発見するというのも、その後の物語の展開を予感させる。小人は、虫たちと親近関係にあり、ネコ(後に変化)やカラスとは敵対関係にあることが簡単にスケッチされている。だんご虫とアリエッティが戯れるところも笑える。

 45歳以上の世代には、小動物から見た世界のアニメの古典といえば、トムとジェリー、みつばちハッチ、山ねずみロッキーチャック(ほかにも、アメリカのアニメで、小さくなる光線を浴びた男の物語があったような)ということになる。人間が小さくなる物語として、ニルスの不思議な旅、スプーンおばさんがある。小さくなった人間は、大きくなった人間とのつきあい方にも、おのずから説明を必要としない文法のようなものがあり、難しさを感じさせない。

 小人と「人間」との関係を考察するアニメは、両者のつきあい方の「哲学」を描くことになる。小人は「人間」に姿を見られてはならない。「人間」を対象化する存在である。共存共栄の知恵が試される。その小人の描き方が、このアニメでは見事である。釘、糸、針、葉っぱ、釣り針、豆電球などで巧みに表現される。角砂糖やティッシュペーパーは小人にとって貴重品というところが面白い。特筆されるのは、小人が生活道具をみずから作る器用仕事をする、たくましい存在として描かれていることである。借り暮らしの哲学は、小人たち自身が作り得ないものを「人間」から借りてくるというものである。そこで、「人間」も本当に自分たちで作ったものを持ち得ているのか、誰かが作ったものを使い、地球から「借りているだけではないのか」という反問を小人から暗黙のうちに問いかけられることになるのである。

 アリエッティには優しく見守ってくれる両親がいるが、心臓を病む翔は、両親が離婚している。本好きな男の子で、小人の世界にも興味をもっている。ベッドで、死を予感する不安な表情を浮かべながら、バーネット作『秘密の花園』を読んでいたりする。翔の世話をするハルさんが、アリエッティの母ホミリーを見つけ、捕獲する。ほとんど虐待の世界である。ハルさんには、ハルさんなりに、小人を見つけたという喜びがあってのことなのだろうが、残酷すぎるのである。ハルさんとホミリーとの間には、会話も成立しない。悲しすぎる。しかし、現実の世界は、もっと残酷である。それも悲しい。

 アリエッティの父ポッドが、靴や手に粘着テープのようなものを巻きつけて台所に上るところが秀逸である。ポッドがその足を負傷し、口数の少ないスピラーに助けられて帰宅する場面が意表をつく。小人族としての別世界を想像させて楽しい。ほかにも、このアニメでは、ドールハウスの世界についても、かなりの研究がなされているのだろう。しかし、小人族の父と娘との関係については謎が多い。14歳で狩りに出てよいという決まりがあるのだろうか。山場は、引っ越しを余儀なくされたアリエッティが髪の毛を止める小さい洗濯ばさみのようなものを翔に手渡す場面。小人と「人間」との友情、かなわぬ恋が繊細に表現されている。宮崎、高畑両監督に続き、次回作に期待したい監督が一人増えたのは、喜ばしい。それにしてもスタジオ・ジブリ、たくさんのアニメーターを抱え込んで、将来、大丈夫なのだろうか。そこが心配である。

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