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2010/02/27

シャンハイムーン

 シャンハイムーン。中国の作家・魯迅と彼の最期を看取った4人の日本人を描いた井上ひさしの戯曲を見た。今年2月から、東京・紀伊国屋サザンシアターを皮切りに、再々演されている。

 こまつ座としての、いわゆる「初期」作品。最近の井上戯曲にみられるミュージカル的要素が一切ないものの、セリフの一つひとつが際立っていて、良い声の俳優をそろえたおかげで、言葉が音楽的とさえいえる響きをたたえる。言葉遊びの楽しい作品。初演と再々演を見た友人は、今回の方が断然良いという。

 村井国夫演じる魯迅。抜群。有森也実演じる許広平。秀逸。

 魯迅の人生を圧縮したかのような場面がいくつもある。彼がなぜ医学から文学へ進んだかは、いまなおヴィヴィッドな謎である。井上ひさしは、仙台生活を体験しているから、仙台にゆかりが深く、本好きという共通点がある魯迅に入れ込むのも、むべなるかな。ましてや、多喜二虐殺を知って弔電を送った魯迅を今年とりあげるというのも、昨年の「組曲虐殺」との連続性を感じさせる。以上、魯迅ファンの常識。

 「あなたを許していいのかどうか、私にはわからなくなりました」と許広平に語らせたセリフは、中国を侵略した日本、その日本に留学し、最初の妻を放ったらかしにして第2夫人のもとへ走った魯迅という男の存在を超えた広がりをもつ。許したことによって生じるもの、許さなかったことによって生まれる事態がある。

 いわゆる「離婚」騒動を乗り越えた、歯の悪い男、井上ひさし自身の姿が投影された場面(隠れたテーマは、これかもしれない)がある。逆にそれが、すさまじい滑稽さとなって、笑いのうちに涙する説得力をもって迫ってくるのである。妻を長年、放擲した男の罪の許しはえられるのか。中国の革命に多大な影響を与えた偉人の内面に肉薄している。

 いまでも、いわゆる「離婚」騒動時に井上ひさしが執筆していた作品で、完結していないものがある。会うは別れの初め。夫婦にはいつか「死別」という必然の別れがある。にもかかわらず、生きている間の「別れ」にも遭遇する。

 ああ、魯迅が2・26事件に揺れるファシズムの日本に亡命していたら、一体、彼の人生はどういうことになっていただろうか。日中友好のみならず、アジア友好は、いかにあるべきか。シャンハイムーンを見て、改めて考える。

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2010/02/21

政治思想家たち

 デイヴィッド・バウチャー、ポール・ケリー編著『政治思想家たち―ソクラテスから現在まで―(第2版)』(オックスフォード大学出版会、2009年)は、古代から20世紀に至る西欧の政治思想の概要を手際良く紹介しながら、ソフィストらの政治思想家グループ、文字通りソクラテスからフーコーまでの24人を政治思想家として位置付けて論じている。学生向けのテキストである。

 この2人の編者による著書としては、すでに『社会正義論の系譜―ヒュームからウォルツァーまで』(ナカニシヤ出版、2002年)という翻訳が出ている。

 さて、政治的でない思想など、本来はありえないのだから、あえて「政治思想家たち」としなくても、「思想家たち」という表題でも良いような気がする。本書を読み解く鍵言葉は、デモクラシー、正義、自由である。平等と友愛の項目は、わずかで、ファシズムへの言及も少ない。この本に書かれない部分の大きさによって、逆に日本・ドイツ・イタリアでの「ファシズム」研究の占める位置の大きさを知るのである。

 まず、目次を一瞥して面白いと思った点を挙げよう。政治思想家集団の括り方が、ありきたりな日本の政治学の教科書とは違う。欧米の政治学がそのまま日本に伝えられているとは限らない例証として参考になる。もちろん、日本的な政治思想史の叙述があっても良い。ただ、多様な政治思想史に触れたいと願うばかりなのである。

 特筆すべきは、米英豪の大学に所属する政治学者に交じって、モンテスキューの項目を東京大学のヨシエ・カワデ教授が担当していることであろう。カワデ教授はフランス近代政治思想の専門家として世界的な権威らしい。しかし、本来であれば、フランス人の政治学者が担当すべきところだが、本書にフランス人らしき人名は一人も見当たらない。不思議である。他愛のないことであるかもしれない。邪推すれば、どうも米英豪と仏との政治学者の交流が薄い、あるいは険悪なのではないかと疑いたくなる。

 本書で取り上げられるフランスの政治思想家はモンテスキュー、ルソー、トクヴィル、フーコーにとどめを刺す。ベルクソンやサルトルは入らない。索引にも出てこない。このあたりの欧米政治学界の事情をどう考えたらいいのだろうか。サルトルは嫌われているのか? 野坂昭如の「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか。ニ、ニ、ニーチェかサルトルか」という歌が懐かしい世代なので、サルトルの名前がないと、どうも寂しい。しかし、フランスの政治(階級闘争)は、いまだに注目に値する。

 西欧の政治思想家を中心に取り上げた本なので、当たり前のことだが、日本の思想家は一人も取り上げられていない。今後、願わくば、ショーエキ・アンドーとか、ナカモト・トミナガ、ソライ・オギュー、リョーマ・サカモト、ユキチ・フクザワ、クマグス・ミナカタ、クニオ・ヤナギタ、シノブ・オリグチ、マサオ・マルヤマ、ケンジ・ミヤモト、シューイチ・カトーの項目のある「政治思想家たち」を読みたい。ロシア、中国、ヴェトナム、インドやイスラム、中南米、パレスチナの思想家も取り上げてほしい。なにくわぬ顔をして、『政治思想家たち』という題で堂々と出版してしまうあたりが、西欧米中心主義(?)なのかもしれない。

 もう一つ注目すべきなのは、一人一項目と思いきや、ジョン・スチュアート・ミルとマルクスにそれぞれ二つの項目が割り当てられていることであろう。マルクスについては「初期マルクス」と「マルクス=エンゲルス」の項目がある。おそらく、「ドイツ・イデオロギー」「経済学批判要綱」研究の反映であろう。いわゆる「新メガ」が完結すれば、マルクス=エンゲルス研究は新たな段階に入るのかしらん。

 悲しい哉、アドルノ先生(1903~1969)の弟子ハーバーマスが取り上げられてはいるものの、アドルノ先生は一顧だにされない。たった1ヵ所、ハーバーマスの経歴紹介に出てくるだけである。米英豪でフランクフルト学派の代表は、ハーバーマスなのである。あーあ。

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2010/02/14

未来

 未来から現在を見ることは、本来は無理なことである。未だ来らず。それが未来の定義であるのだから。それに加えて、予測の不可能性、不意打ちを食らうような出来事がなければ、未来への興味は薄れてしまう。

 しかし、思考実験として未来から現在を見る、あるいは、見たように錯覚することは、誰にでも可能である。未来にならない未来、現実にならない(現実になるかもしれない)未来を想像することは、当たり前のように行なわれている。小説の世界が貴重であるのも、芸術やスポーツに限らず、未体験の知覚領域を広げることに通じるからであろう。文学とユートピア。極端な言い方をすれば、いろんな芸術に触れることによって、われわれは、他者の異常な想像力(創造力)を楽しむのである。

 さらに、過去の体験を現在の人間が共有するようになれば、思考実験としての未来も、豊かなものになるだろう(と思う)。田中角栄が、いまや歴史上の人物であり、表象や記号にすぎない世代が成人したとしても、過去に逆行することは容易ではない。目には見えない「強制力」、ベクトルが働いている。「教育とは、別の誰かの自由を制約することである」(広田照幸)との定義に接して、何か、ある種の不自由さを直観するのは、なぜだろう。おそらく、教育に、未来が含まれているからであろう。カントが読み耽ったとされるルソーの「エミール」には、別の誰かの自由を制約することばかりが、書かれていたのであろうか。

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2010/02/08

小沢氏は鳩山首相の「アバター」

 世間では民主党の小沢一郎幹事長を最高実力者のように考えるが、名目上も実質的にも、鳩山由紀夫代表(首相)が巧妙(もはや、この言葉は民主党政権にあてはまらないが)に立ち回り、イニシアチブをとっていることは、徐々に明らかとなりつつある。

 なぜか。ことあるごとに、小沢氏は、鳩山代表、鳩山首相の信任を得ているから、続投せよとの言葉をいただいたからと、のたまっているからである。世論調査でも明らかなとおり、小沢氏の最大の庇護者は、鳩山首相(鳩山代表)であって、国民ではない。小沢氏が世論の批判にかかわらず、民主党の幹事長辞任を考えない理由、原因もここにある。鳩山氏は、言を左右しながら、一貫して小沢氏を擁護し続けている。

 一部の新聞は、鳩山首相が小沢氏と距離を置き始めたと語る。確かに「ウラ」では、そういう顔も見せるのだろう。しかし、鳩山首相は、小沢氏が批判の矢面に立つことによって、国会で、自らの脱税への批判を弱め、少しでもかわすことができるのだから、これほど、オイシイことはない。いわば、小沢氏は、鳩山首相の「アバター」なのである。

 それに輪をかけて、民主党の石川知裕被告の対応もひどい。かの自民党の田中角栄元首相ですら、逮捕されれば離党したものだが、逮捕・起訴されても民主党を離党しない。どうぞ離党せず、今年夏の参院選での民主党への国民に対する審判に思う存分、影響を与えてくださいというほかない。石川被告には、東京選出のヤメ検民主党参院議員の応援にベッタリ張りついていただきたい。一部の民主党の提灯持ち学者、ジャーナリストは、石川被告の弁護人の言い分をマスメディアにそのまま伝えて、正論を吐いているかのように錯覚している。倒錯もはなはだしい。犯罪容疑をもたれている被告を公然とかばう一部ジャーナリストが現れていることも、前代未聞であろう。

 民主党は「革命政権」でもなんでもない。現状では、自民党時代の国会よりも日本の政治を後退させる危険性がある。それは、「政治とカネ」をめぐる民主党の国会対応に象徴される。あの自民党が、こともあろうに、「政治とカネ」で民主党よりマシだといわんばかりの街頭宣伝を打つことができるのも、自分たちと比較しているからである。小沢氏のように公共事業を食い物にしてきた疑いのある人物は自民党にもいる。しかし、小沢氏が政権中枢に居座り続ける限り、国民の税金の使い方は大丈夫なのかという不信感は増幅し、それは、疑惑を許容する社民党、国民新党を超えて、政治そのものに及ぶのである。政治不信が、民主主義の発達の妨害となることに注意しなければならない。

 一部ジャーナリストが石川被告をかばうのは、そのジャーナリストの見識が、その程度のものだということを示す指標となる。一部学者、ジャーナリストが小沢氏の疑惑に甘い理由の第一は、政治資金規正法違反の罪のとらえ方にあるだろう。虚偽記載は、そんなに軽いものだろうか。収支報告書で、国民に総額20億円を超えるウソの報告をしたとされるのは小沢氏の資金管理団体「陸山会」の金庫番である元・現秘書3人である。国会における政治家の言葉は、国会の会議録に逐一記録されるのであり、それは、政治資金規正法と同じように、国民による不断の監視と批判にさらされることを前提としているのである。政治資金をごまかす政治家が、同じように税金の使い方をごまかすのではないかと国民が危険視するのは、当然の判断である。
 
 検察批判は、どうぞご自由にやってくださいと言いたいが、少なくとも、現職の国会議員を逮捕するのは、その人物を当選させた有権者がいる手前、検察としては、相当、ハードルの高い捜査である。検察は、それをクリアして、石川衆院議員を逮捕・起訴し、被告としたのであるから、その検察の判断は重い。

 検察や司法が誤ることは、洋の東西を問わない。検察批判をするなら、過去の検察による国会議員の逮捕の事例と比較して、ものを言うのが最低のルールではなかろうか。むしろ、国会議員に対する検察の捜査は、過去から現在に至るまで、「生ぬるい」というべきであるのに、一部学者、ジャーナリストは、そのような言動をとらない。小沢氏の疑惑が大問題となっているときに、一部学者やジャーナリストが、議員辞職を拒否している民主党や石川被告を応援したいのなら、法廷に証人として出廷し、堂々と擁護すればよい。

 鳩山首相は、ぬくぬくと、小沢氏や石川被告を「アバター」として乗りこなしていくのだろう。誰が去年の総選挙で小沢氏の疑惑に信任を与えただろうか。民主党のマニフェストのどこに、小沢氏の疑惑を書いているのか? ウソの言動がまかり通るところにファシズムがくる。新しい政権は、新たな御用学者、御用ジャーナリストを準備することを勉強できただけでも、収穫である。なんと寂しい日本の政治。

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2010/02/02

ブルーシート

 浅尾大輔の『ブルーシート』を読むべし!

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