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2009/09/29

徳永恂『現代思想の断層』(岩波新書)

 アドルノ先生(1903~1969)の謦咳に接した徳永恂氏の著書『現代思想の断層――「神なき時代」の模索』(岩波新書)が面白い。徳永氏がアドルノ先生と会った様子は、『アドルノ――批判のプリズム』(平凡社)に詳しい。

 まず、どうでもいい話だが、徳永氏は岩波文庫の『啓蒙の弁証法』の訳者の姓としては、簡単な「徳」の字を使っていたのに、今度の岩波新書では「徳」の字に一画多い異体字を使っておられる。それだけ、本書にこだわりを見せているというサインなのだろうか。気にしないでおきたいが、気にしたくもなる。少なくとも、自らの名前へのこだわりを示すことで、著者の気合いが入っている気がする。

 それはさておき、本書は、かなり、飛び抜けて、とてつもなく、想像を絶するほど挑発的である。科学的社会主義者を揶揄するような問題提起がある。「岩波新書で、よくも、こういう本を出したものだ!」とため息をつき、お茶を啜りたくなる。なるほど、ハバーマス氏をリーダーとする最近のフランクフルト学派の研究者やマルクスの研究者が、アドルノ先生に対して、なんとなく忌避する理由が、本書を読むとわかるような気がしてくる。あくまでも、なんとなく。いわば、ハイデガーを手鏡にしながら、ウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノ先生が生きた時代のコンステラチオン(「星座の布置」「境位」。注=なんとも、こなれていない訳語ですなあ)を描き出す試みである。彼らを「現代思想」として真正面からとらえるところが堂々としていて爽快である。

 思想の断層という把握も、徳永氏自らの入院体験(循環器系統の断層写真による検査)にヒントを得ているというから、転んでもタダではおきない関西居住者気質が投影されていて、これまた痛快である。

 マルクスが再評価されている時代にあって、あえてベンヤミンやアドルノにマルクスの影響を認めない「へそまがり」性も愉快である。

 徳永氏によるアドルノ先生の未完の思想の今日的解説は、当然ながら年季が入っている。アドルノ先生を論じた自著を引用しつつ、読み過ごしていたことを惜しげもなく開陳している。あっぱれな態度である。とくに、ハイデガーと対決したアドルノ先生の「故郷」概念の解明は、「大きな物語」が語られなくなった時代に、パレスチナ問題を例にしながら、意識的な「故郷」喪失の重要性を提起している。故郷主義者が、定住しない余所者に対して排他的であること、領土要求などのかたちをとって泥沼状態を現出させると指摘する。徳永氏は、アドルノ先生の批判の矢が、どこから、どこに向けて放たれているのかという問題を真摯に考察してもいる。

 脇道にそれるが、日本の文学者では、池澤夏樹氏がもっとも「故郷」喪失的な引っ越しを繰り返しておられる。池澤氏の父、福永武彦氏は『ゴーギャンの世界』という本を出していたが、池澤氏がゴーギャン展にちなんでNHK教育テレビの番組で、ゴーギャンを語ったことも「父」を意識してのことであったろう。池澤氏は、ゴーギャンの絵を読み解きながら、われわれが、どこからきて、どこへゆくのかという「大きな物語」再生の試みをしているように思えた。

 さらに脇道にそれるが、加藤周一氏も最晩年、「故郷」概念について思いを巡らしていた。それが加藤氏の著作にどのようなかたちで反映されたかは、わからない。『夕陽妄語』の最新刊が出ない(?)のとあわせて、岩波書店『加藤周一自選集』全巻が出揃うのを待つほかない。加藤周一氏といえば、ヴァレリーやサルトルとの関連で、フランス的知性が強調されるが、ドイツ思想への造詣の深さも底光りするものがあると思う。

 さらにさらに脇道にそれるが、今年80歳になる徳永氏は、アドルノ先生の提唱した晩年の仕事(過去の自らの仕事に対して破壊的にふるまうこと。創造的破壊の人文学版)を忠実に実践しているようだ。アドルノ先生を師と仰いだE・W・サイード氏、サイードの友人・大江健三郎氏も晩年の仕事理論の圏内にいる。大江氏の小説には、ベンヤミンの影響が露骨なまでに出たものまである。大江氏がアドルノ先生に触れたのは、サイードを追悼する一連の文章の中でだった。

 徳永氏は、アドルノ先生とアメリカとの関係についても大胆に考察を進めておられる。ぜひ、アドルノ先生をとりあげた本書第4章だけでも一読をお願いしたい。

 本書を読んでのとりあえずの感想は、「大きな物語」の発見、発掘こそが今求められており、それはアドルノ先生とハイデガーの対決を今日的に再検討することでもなしうるのではないかという問題提起がなされているということである。それにしても、ハイデガーか。マルクスの研究者がアドルノ先生に寄りつかない訳である。徳永氏の弟子たちがどのような反応でもって、本書を迎えるのか、ぜひとも知りたいところである。

 余談だが、アドルノ先生の『文学ノート』(みすず書房)の第2巻が出ないので、なんともコメントのしようがない(出たとしても、筆者の力量では、まったくコメントのしようがない)。注・9月半ばに第2巻が出ていたのである。早速、身の程も弁えずに買ってしまったが、このままでは、ざるそばを食いつづけるしかない。まあ、翻訳料と考えれば、とても安い値段なのだが、みすず書房の大英断には頭が下がるばかりである。

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2009/09/19

青年劇場「結の風らぷそでぃ」

 青年劇場の「結の風らぷそでぃ」が9月18日、東京・新宿駅南口の紀伊国屋サザンシアターで初日を迎えた。農家を営みながら作家としての活動をつづける山下惣一の原作を脚本・高橋正圀、演出・松波喬介のコンビで上演してきた3部作のラストを飾る作品の初演である。
 
 「遺産らぷそでぃ」「菜の花らぷそでぃ」を見ていない者として、批評ははばかられる。なにせ、およそ10年ごとに1作ずつ上演されてきたから、第1作の初演は約20年前になる。息の長いとりくみとして、このことに驚嘆する。そして、パンフレットに掲載された山下惣一の文章がみごとである。日本型小農のすばらしさを、日頃の農作業に裏打ちされた事実でもって示し、説得力がある。大企業が農業に参入できる「規制緩和」が行なわれた今、そのような市場原理、新自由主義を象徴する登場人物が道化役として配されている。

 へえーと思うセリフがあった。彼岸花がなぜ咲くのかということ、稲がどのような手順でコメになってゆくのかということなど、改めて、知っているようで知らないことを痛感させられた。農家は、アホには務まらないのである。

 「米田結」が主役なのだから、演出上の工夫が、もう少しあってもいいのではないかと思った。稲やコメが舞台にもう少し配置されていいのではないか。服に籾殻がついているくらいの演出がほしい。もちろん、チェーホフ流の作劇術でいけば、主役は全員ということなのだが、農家の担い手の平均年齢が65歳という日本農業にあって、農家の若娘が祖父の農業の後を継ぐというのは、相当な大事件であり、それゆえ「結」という娘は、それだけの性格描写が求められる。実際に、若い女性が農家の後継ぎになっている例があるが、気負いがないように見えて、やはりその大変さは、一筋縄ではないように思う。逆に、それだけ日本農業の深刻さを示しているとも考えたくなる。舞台上に誰も役者がいなくなる場面があるのが残念である。それを差し引いても、日本農業の大問題に真正面から立ち向かう力作であり、一見に値する劇であろう。

 舞台初日というのは、どんな演劇のプロでも緊張するものらしい。民主党(連立)政権も、長妻昭厚生労働相が閣議(閣僚委員会に変わったのか?)に遅刻してくるし、民主党によるマスメディアへの情報提供もぎこちないものがある(はっきりいって民主党の情報公開は政権を担う前から不十分だった)し、最初だから大目に見るとしても、期待を裏切ることは、真剣さの不足と受け取られても仕方ないだろう。

 日本の農政はひどすぎる。農業破壊の連続である。政党の政治へのとりくみの真剣さは、日本農業をどうするかで、一番よくわかると思う。深夜に行なわれた閣僚会見だったが、赤松広隆農水相の会見の場面で、一気に眠たくなってしまった。マニフェストを繰り返すだけで、農業をどうしていくかという熱意が感じられなかった。アドルノ的筆者は、はっきりいって、民主党政権にはまったく期待していない。なぜ鈴木宗男が衆院外務委員長などになるのか。日本のNGOの敵ではないか。しかし、青年劇場には、とても期待している。100回公演おめでとう。
 

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2009/09/09

森敦さん没後20年

 今年は、名作「月山」「われ逝くもののごとく」などで知られる作家の森敦(もり・あつし)さんの没後20年である。

 森敦さんは、作家仲間からモリ・トンと呼ばれ、兄のように慕われた。60歳を超えて芥川賞を受賞したことで話題となり、時の人となったこともあった。モリ・トンからアドヴァイスを受けた作家は、なんらかの文学賞の名誉に預かるという伝説さえある。とにかく、人生を文学の探究一筋に捧げ、人生哲学を磨きつづけた。作家の小島信夫さんのファンならご存じだと思う。歴史家の阿部謹也さんは、森さんの小説が、初めて日本の世間を描いたと絶賛していた。

 若い頃は、太宰治、檀一雄、森敦が同人誌の作成に集まり、同じような出で立ちだったので、紺絣3人組と呼ばれたこともあったという。その周囲には、中原中也がいて、吉田秀和がいたという具合。

 森さんの養女、森富子さんが、彼女の父の文学をさらに世に知らしめるために、

 森敦資料館

を開設している。なにとぞ、ぜひ訪問して、堪能していただきたい。

 そのホームページでは、森敦全集に収録されていない対談、インタビューなどが丁寧に集められ、紹介されている。写真も充実している。

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2009/09/07

くだらないテレビ番組

 民主党政権誕生までの空白の時間が続いている。総選挙後の報道(といえるかどうか)番組で、NHKや民放を含めて、野党になった「自民党の再生」についてうんぬんするものがあるが、なぜ、そんなことを公共の電波を使って自民党員に代わって考えてあげる必要があるのだろうか。実にくだらない。1955年以来の自民党の罪状を考えれば、公明党とともに消滅すべき政党だと思う。そのような政党に時間を割くのなら、もっと生活に困っている人たちをテレビに登場させて、訴える時間を与える方がよほど建設的である。かくいう私も、生活に困っているが。

 7日朝のテレビ朝日系の番組にも、自民党の「若手」議員2人が出演している。能天気な御仁である。悲惨な国民生活、経済、暮らしの実態に思いを馳せたこともないような、自分たちのことばかり考えていることをアカラサマにする発言ばかりしている。自民党は敗れたとはいえ、こんなくだらない議員を119人も当選させたのだから、それぐらいのニュース・バリューはあるのだと開き直るのかもしれないが、国民の審判を受けてから日数も、そんなに経っていないのだし、自民党議員は、自分たちで静かに反省し、沈思黙考すればいいではないか。

 民主党についても、すでに小沢一郎が幹事長になり、この政党の本質というか、弱点というか(民主党は小沢のおかげで大勝できたと分析している)、ボロが出始めている。いずれにしても、外交・安全保障問題と財源問題で、この政党は崩れていくだろう。民主党は消費税増税を完全否定していない訳だし、その点では、財界は不安を感じていないはずである。民主党は政党助成金もなくすとはいっていない。国民の税金を自分たちのPR活動に使って平気な金銭感覚の政党が民主党である。だまされてはいけない。

 NHKは、マイケル・ジャクソンの手袋が450万円で売れたとか、これまた、実にしょうもないジャンク・ニュース情報を、朝の貴重な時間に流す。職場で話題になるとでもいうのだろうか。NHKに一縷の期待を抱いていたのが、間違いだった。番組内容に抗議しても、まったく視聴者の意見を反映して制作している形跡がない。「日本の、これから」なんて番組が特にひどい。当方は、衛星放送の契約などしていないのに、えんえんと衛星放送料金の請求書を送りつけてくる。間違った請求書に対して払う義理はない。抗議してもみずからの非礼を認めず、謝罪もしない。2011年を境にアナログ放送が見られなくなることを幸いに、いよいよNHKやテレビそのものとサヨナラする時期が近い。

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