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2009/07/24

自分の望まないことはわかる

 日々のニュースで伝えられる現実の、あまりの馬鹿馬鹿しさに、幻想や空想、ゲームの世界へ逃避したくなる心持ちが、多くの人に広がり、共有されるのも、むべなるかなという思いすらして、暗黒面へ落ちていくアナキン・スカイウォーカーの如く悪夢を見る。しかし、ダース・ベイダーになる訳にはいかない(なろうと思ってもなれないが)。暗黒面を見つめ、事実を見つめることから、明日を考えるしかない。誠に貧弱な結論である。総選挙は、事実上、始まっており、事実を報道する側の立ち位置、姿勢も鋭く問われている。未来の展望は見えにくい。見えにくいが、望ましい方向を考えることは、難しいことなのだろうか。

 今年7月上旬から中旬にかけての朝日新聞をめくってみた。地方版を除いて、都議選で自民党か民主党かの選択を迫るキャンペーン報道一色であった。総選挙報道の予行演習だったといえよう。同じことを繰り返すつもりなのだろうか。「朝日」は、アメリカのような政治モデル(共和党と民主党との政権交代の繰り返しというジレンマ)を良しとするのだろうか。自民党と民主党とも宇宙軍拡を推進しており、両党の選択を迫るのは、宇宙への関心をさらに高めつつある人々にとって望ましい方向とはいえない。「選択」と呼ぶことすら間違っている。

 新聞の読み比べで面白いのは、学芸欄、生活欄、海外ニュースくらいしかないと思う。「しんぶん赤旗」に野中某が登場したのには驚いたが、「朝日」「毎日」でそういう驚きは受けない。むしろ、日本共産党の代表者が、それらの紙面に登場することに驚いたりする。「珍しい」と。自民党を応援しているらしい人、民主党を応援しているらしい人が、無党派、中立を装ってオピニオン欄に登場する。欺瞞としかいいようがない。

 テレビでは、自民党の政治家へのぶらさがり取材で何人もの記者が、ICレコーダーを向け、メモをとる場面が映る。得られた情報のほとんどは新聞社内に蓄積され、報道されるのは、ごくごく一部にすぎない。本当は、政治家のしょうもない発言も含めて、取材したことはできる限り報道されることが望ましい。「毎日.jp」が首相の会見をネットに出したのは好判断だった。記者会見で質問するよりも発言をただちにネットにアップすべく奮闘している記者の姿には、ネットのアクセス数を稼ぐことが政治記者の第一義的課題になっている感すらある。ただの「記す者」では恥ずかしい。政治記者のみなさん、政党の政策、姿勢に疑問を感じ、怒りを抱いたのなら、デスクとたたかってでも、読者に伝えてほしい。切なる要望である。大状況と小状況を教えてほしい。

 ともあれ、加藤周一亡き後の朝日新聞で読むに耐えるコラムは、池澤夏樹、大江健三郎のそれであり、中国の詩人・北島へのインタビュー記事だった。後は外岡秀俊の香港からの報告ぐらいであろうか。門田勲、森恭三、本多勝一、深代惇郎がいたころのような「朝日」を、いま読むことはできない。日本ジャーナリズムの本流は、イラク侵略戦争を告発し続けてきた「しんぶん赤旗」が担っていると思う。

 誰も悲惨な結果を望んでいないはずなのに、報道されるニュースの多くがわれわれに地獄絵図を見せつける。世界が「野蛮化」しているように見せる。明るい、心の温まるニュースは常に、二の次、三の次である。もちろん、過ちを繰り返さないためにも、事件・事故から学ぶことは重要である。むしろ、ニュース報道として望ましいのは、単なる悲しい事例の紹介にとどめておいてはいけないということだろう。残念ながら、どうしたら失敗を繰り返さないのかという角度の報道、分析は、それほど多くない。ましてや、総合誌などの廃刊(休刊という名で)が続いている現状では、衰退しているとさえ言っていいだろう。こうした欠陥、弱点は、日本のニュース報道の性格、特徴(日本のテレビ局、新聞社もまた資本主義社会の企業)に規定されていることも否めない。

 この間、日本のテレビ局が報道する海外ニュースは、為替と株などの金融事情、マイケル・ジャクソンの突然の死(ダイアナの死の報道も過熱した)など著名人(主に金持ち連中)の動静を除けば、後は北朝鮮の金正日の健康状態と後継者問題、オバマ米大統領のジョーク、妻のファッション、娘、犬の様子、米メジャーリーグで活躍するプロ野球選手、中国の民族問題、たまにベネズエラのチャベス大統領の演説、キューバのカストロ前議長の健康状態が加わる。

 つまり、日本のマスメディアの海外ニュース報道は、反共産主義キャンペーン報道が中心となっているのである。北朝鮮は、社会主義・共産主義とは無縁だが、日本のマスメディアは、反共キャンペーンの枠内に位置付けている。麻生太郎が解散・総選挙を、都議選での自民党大敗後に位置付けたのも、都議選での日本共産党の獲得議席数(得票数を増やしながら、惜敗している)と無縁ではないと思う。財界・自民党は、民主党よりも日本共産党の躍進を阻止することに照準を置いていると勘ぐりたくなる。
 
 閑話休題。ウッディ・アレン監督の映画「それでも恋するバルセロナ」(原題は「ヴィッキー、クリスティーナ、バルセロナ」)には、恋人との結婚を間近に控えながら、自分がどうしたらいいかわからない女性(ヴィッキー)と、自分が望まないことだけはわかる女性(クリスティーナ)がバルセロナを訪れる場面から始まる。異郷の言葉による疎外感、恋愛の定義の難しさが独特のタッチで演出されてゆく。自分の望むことは、わからないが、望まない(きらいな)ことだけはわかる女性(クリスティーナ)は、冒険主義的で、画家と、画家と離婚した妻との三角関係に巻きこまれる。が、自分の望まないことがわかるという「理性」を発揮し、画家のもとを去る。
 自分がどうしたらいいかわからない、まさに恋愛状態そのものに陥った女性(ヴィッキー)は、慎重さを失い、画家に翻弄されることになる。画家の元妻が銃を発砲する事件に巻き込まれ、文字通り火傷する。そして、こんなことは自分の望みではないと叫ぶのである。

 さて、この世界には、自分がどうしたらいいかわからない人もたくさんいるし、自分が望まないことだけはわかるという人もたくさんいる、に違いない。

 では、自分の望まないことがわかるだけでも大したものだとウッディ・アレン監督は主張したいのだろうか。なにしろ、人間は、日常茶飯のように、望まないし、望んでもいなかったことを、しでかしているのだから。なぜ、こんな人を好きになったの? なぜ応援したの? というレベルでいえば、2005年に小泉純一郎を応援した人たちは、擬似恋愛だったのかもしれない。その結果は、2009年の時点で明々白々である。

 しかし、ウッディ・アレン監督は、自分の望まないことだけがわかるだけでは、痛い失敗を経験することも示唆していた。総選挙でまたも失敗を経験しないといけないのか、それとも失敗を経験しないでわかるのか。肝心なのは、自分たちの望む政治へ変革することである。年金・福祉、教育への「国民」の関心の高さにそれは表れている。

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