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2009/05/30

太宰治と浅尾大輔

 太宰治をめぐって、これまでどれだけ多くの人が彼を話題にし、語ってきただろう。一読者からすれば、プリズムにあてた光のように乱反射するような太宰の作品群と、太宰への評価にとまどう経験ばかりしている。太宰をベンヤミン=アドルノ的に、星座的に布置する試みは、もっとなされてよい。二〇〇九年五月三十日発行の日付をもつ文藝別冊『太宰治』(河出書房新社、以下、河出版太宰特集と記す)を前にして、まず思うのは、このことである。

 河出版太宰特集に、太宰論を旺盛に発表してきた長部日出雄氏がインタビューで登場しているのは納得できるとしても、なぜ高橋源一郎氏への余りにも(余りにも!)短いインタビューが巻頭を飾るのだろうか。河出書房新社編集部は、インタビューの中で、最も「太宰的」な作家として加藤典洋氏が高橋源一郎を指名したことを根拠にしているらしいことを示す。しかし、これは、編集者としての編集方針を棚に上げる「逃げ」ではないだろうか。なぜ、今、高橋源一郎氏が「太宰的」の評価(?)を受けて、生誕百年の今年、太宰の新しい読者の前に現れなければならないのだろうか。「なんで、高橋源一郎が太宰的なんだよー!」と突っ込めば、少しはコントや漫才(とはいえ、今のテレビ放送向きに切り縮められた短いもの)のように、微笑を誘うだろうか。二代目太宰治の襲名披露…。しかし、二代目がみすぼらしくみえるのは、いかんともしがたい。

 かつて、『ユリイカ』太宰治没後五〇年記念特集(1998年)において、小森陽一氏は、「誰が語るのか、そして誰にむかって 太宰治における言葉の力学」という論考で、「昔噺パロディにおいて、私は太宰治の本領が発揮されていると確信している」と書いた。小森氏によれば、「太宰のパロディの語りは、すでに書かれている言葉の背後、あるいは言葉と言葉の間の空白から、書かれることのなかった、あるいは排除された、複数のありえたはずの物語を甦らせてしまう力をもっている」という。これは、太宰文学の本質をついた重要な指摘のように思える。もし、仮にこの小森氏の論を「太宰的」の本質を端的に示したものとすれば、なるほど、『さようなら、ギャングたち』でデビューし、サブカルチャーのパロディを得意とする高橋源一郎氏も太宰の「二代目」たりうるではないか。実際の物語、歴史から排除された、複数のありえたかもしれない物語、歴史を太宰治が甦らせたと言い換えれば、太宰文学を読み、楽しむ空間は確実に広がる。しかし、この小森氏の論考も、太宰文学を読み解く面白さの紹介であって、小森氏自身の評論の持ち味を示しているにすぎないことに気づく。小森氏こそ、まさに、言葉の背後、言葉と言葉の空白から書かれることのなかった物語を浮きあがらせる名人だからである。不思議なことに、太宰文学は、それを論じ、語る者の「自画像」を描くように仕向ける。太宰文学は、読者を「共犯」にするといわれるゆえんかもしれない。

 ところで、河出版太宰特集では一体、「太宰的」をどのように定義しているのだろうか。編集部から太宰的な作家なのでは? と質問をぶつけられた高橋氏は、「何が太宰的かということになりますが」と保留しつつ、「太宰的」な作家として、山田詠美氏、舞城王太郎氏、中原昌也氏、阿部和重氏、橋本治氏、さらに岡田利規氏、前田司郎氏ら演劇と文学の両方で活躍する作家の名前を挙げる。これでは、「太宰的」のなんたるかが、読者に伝わらない。何も説明していないに等しいではないか。加藤典洋氏も「今の作家で太宰的な作家というと?」という編集部の質問に、高橋源一郎氏を挙げ、「破天荒」「正直」「文学への態度が方法的」「サービス精神」を理由とする。これを「太宰的」の要素とするならば、筒井康隆氏や大江健三郎氏、村上春樹氏や村上龍氏、小島信夫氏や森敦氏、井伏鱒二氏、開高健氏や安部公房氏、保坂和志氏も「太宰的」になるのではないか? ところが、「太宰的」の問いの行方は、高橋氏や加藤氏の反射神経の働きのような応答とは別に、太宰文学の本質を探る鍵言葉としては、意外にも、まっとうに有用なのである。つまり、何が、どんな要素が太宰治の文学を、「太宰的」たらしめてきたか? これは長考を余儀なくされる難問、奇問である。

 河出版太宰特集には、〝二十一世紀旗手〟の浅尾大輔氏が、太宰の弟子・小野才八郎氏への快哉を叫びたくなるインタビューを敢行し、「ひきこもり」人への「優しさの連帯」を試みる短い論考も寄せているので注目しないわけにはいかない。太宰をどう評価するかは、評論家や作家にとって、これまでも一種の踏み絵のような役割を果たしてきたと私も思う。ここにも、「太宰的」な特徴が出ているのではないだろうか。

 太宰の死を知り、書いた中野重治氏の当初の文章は、激烈な感情のほとばしる過激な否定が露わだった。「死なぬ方よし」は、愛憎相半ばしていた。そのような文章を、注目していない相手に対して作家が書くはずがない。否定的評価を下したからといって、注目していない訳ではない。確か、安岡章太郎氏も大江健三郎氏との対談で太宰評価をめぐって、否定的な評価を下していた。恋焦がれた相手にふられたようないらだちの感情が漂う語り口で…。安岡氏は、「生れて、すみません」と書いた太宰が理解できない思いが背景にあって、太宰に対してノンといわざるえないようなニュアンスで語っていたように思う。大江氏もそれに抗う様子はなかった。一方で安岡氏は、別の論考で、太宰文学の魅力も独特の筆致で書いた。安岡氏でさえ、太宰評価は変化する。ましてや江藤淳氏も太宰について書くとき、真正面からというよりは、太宰を読んだ頃の、告白しなくてもよいような、みずからの思想的立ち位置(限りなく左翼に接近していた時期)、自画像を吐露する。文学と政治の関係に踏み込まざるをえない厄介さを警戒していたのかもしれない。いずれにしても、太宰の評価、「太宰的」なるものをつかまえることは、江藤淳氏をもってしても常に困難だった。

 それでもなお、困難をものともせず、浅尾大輔氏は、とりわけ太宰と共産主義という、火中の栗を拾うような、炊き上がったもち米に手を差し入れるような、ギョーザを焼く鉄板に手を突っ込むような作法で短い論考を書いている。野蛮な批判精神は、民主主義文学にとって命とさえいえると私は思う。このことを確認したうえで、太宰と共産主義の関係を論ずるとき、まず参照を要求されるのは、「われわれにも、太宰の文学のなかにある鋭敏なもの、清らかなもの、やさしいものはわかるのである」と書いた本多秋五氏の「太宰治と共産主義」だと思う。太宰の「やさしさ」に注目したのは、浅尾氏一人だけではない。もちろん、参考文献として、浅尾氏が論考の出発点に置く宮本顕治氏と加藤周一氏との1949年の対談(対談とは別に、宮本顕治氏は「人間失格」をめぐって評論を書いている)があり、その太宰論は、当時の太宰人気、影響の大きさも作用しているだろう。また、加藤周一氏の『日本文学史序説』における太宰治への評価、最近では、井上ひさし氏の戯曲「人間合格」も視野に入ると思う。太宰治は小林多喜二が虐殺された1933年(昭和8年)2月、杉並区へ引っ越し、筆名「太宰治」(本名・津島修治)として本格的な活躍を開始した。太宰文学の研究者によると、1931~1933年にかけて、太宰の作家としての飛躍(自分を突き放して他人として見るといったこと)があったらしいのだが、浅尾氏の論考は、日本共産党幹部を部屋に泊めたりする太宰の「昭和6年」(1931年)の年譜を示したりして、示唆的である。ちなみに、太宰の師である井伏鱒二氏は、『荻窪風土記』に記述のあるとおり、阿佐ヶ谷で小林多喜二からビールをついでもらった人である。連想、空想、妄想は限りなく続く。

 さて、ここで問いたいのは、浅尾氏が、宮本・加藤対談を論考の出発点にすえ、「宮本顕治による太宰批判の致命傷は、彼を『たたかいの妨害者』として描き出したことだ」と断じたことが、果たして妥当だったかどうかということである。当時の歴史的状況や文脈のなかで宮本氏の言葉も把握されなければならない。むしろ、宮本氏の「『敗北』の文学」に示されたような、野蛮な批判精神の発露ではないだろうか。1949年当時、GHQによる占領下日本の「たたかいの妨害者」とは誰だろうか。もし、仮に浅尾氏がいうように、宮本氏が太宰を「たたかいの妨害者」と描き出したとしても、実際に、太宰文学から栄養を吸収する平和的勢力の民主主義文学の書き手、読者は当時も今もいた。浅尾氏は、太宰の弟子たちが日本民主主義文学会(当時は、日本民主主義文学同盟の創立以来の戸石泰一氏、小野才八郎氏など)の創立時から参加している現実をどう説明するのであろうか。「やさしさ」の連帯を追求する問題意識からすれば、宮本氏の太宰への評論をもふまえるかたちで、太宰文学における「やさしさ」の探求が民主主義文学の書き手の一部に肯定的に受け継がれ、あるいは、弟子たちがどのように師匠を乗り越えようとし、批判的に乗り越えられなかったのか、なぜ、いまの現代日本で太宰文学が切実な意味をもっているかを探るべきではなかったか。なるほど、民主主義文学の作家や評論家の間で、太宰文学を批評の対象にしようとする意識が弱かったことも、問題ではある。それでも、民主主義文学の発展に致命的だったといえるだろうか。

 浅尾氏がインタビューした太宰の弟子、小野才八郎氏のように生涯にわたり師の姿を探求しつづけている人もいる。あの、太宰治と知り合えた、選ばれた! 幸せは、小野氏の口から祝祭的にあふれでているではないか。しかし、現代日本の小学校一年生の教師は、やさしさばかりでは務まらないのではないかという感想も許されよう。小学校一年生の教師は、誠に忙しく、過酷な労働環境に置かれているのである。子どもたちも緊張し、疲労している。教師のいうことに耳を貸さない児童に手を焼き、学校に苦情をいうモンスター・ペアレントにも対応せねばならない。

 「敗戦後まもなく復活した日本共産党の言葉には、太宰が求めてやまなかった『やさしさ』がなかった…」と浅尾氏は書くが、太宰を基準にして、日本共産党に「やさしさ」がなかったと断定するとは、一体、どういうことだろう。大胆すぎはしないだろうか。太宰には、独特の「やさしさ」の感覚があった。そのことを、浅尾氏は、短い論考で全力をこめて美しく書いている。しかし、太宰の「やさしさ」と日本共産党の「やさしさ」が、いまの現代日本で連帯の可能性を秘めていることは、浅尾氏が現に「論壇」で孤軍奮闘していることで証明されてしまっているのではなかろうか。国会をはじめとして、いろいろなところで、日雇い派遣の問題などをはじめ貧困の問題を真正面からとりあげて、変革を求めている日本共産党員が、いまも太宰から「やさしさ」を汲み取ることは可能である。浅尾氏の論考から深く感銘を受けるのは、むしろ、このことである。

 浅尾氏には、機会があれば、「ひきこもり」と「たたかい」との関係について、自明なものとせず、丁寧に論じてほしいと思う。抵抗の一形態として「ひきこもり」という手段があることは容易につかめるが、なぜ、ことさら浅尾氏が「ひきこもり」に執心しているのか、短い論考では、わかりかねる。河出書房新社編集部による行数制限は、腹立たしいばかり。批判する側と批判される側との関係について、私なりの素朴な理解は、宮本氏の文芸批評の場合、批判する対象を乗り越えようとするかたちで行なわれてきた、と思う。自殺した芥川龍之介に対する宮本顕治氏による批判もまた、芥川が「たたかいの妨害者」などではなく、暗黒の時代を懸命にはばたき、生きようとしたところに目は注がれていた。それでもなお、野蛮な批判精神によって、宮本氏は、自殺した芥川を乗り越えようとした。浅尾氏は、文芸批評における野蛮な批判精神の開拓者ともいえる宮本顕治氏に、新たに野蛮な批判精神で立ち向かおうとしている、ように見える。だが、何度でも強調するが、短い論考では、日本共産党を嘲笑する勢力に誤読される危険性が高い。

 加藤周一氏は、宮本顕治氏とただ一度だけ対談した。対談をお膳立てしたのは、評論家の臼井吉見氏(筑摩書房の創設者の一人)である。短い論考で、浅尾氏は、加藤氏が宮本氏と二度と対談しなかったことに注意を喚起しているが、そのことにどれほどの意味があるのだろうか。加藤氏は、一度限りの対談の記憶を強烈に保持しつづけ、人生の最後の最後まで宮本顕治氏を尊敬しつづけた。そのことは、加藤氏が、信濃追分の別荘での交遊を中心に回想を記した本にも書かれている。選挙で応援するために推薦文を書いた政治家は宮本顕治氏ただ一人という加藤氏は、「しんぶん赤旗」に宮本顕治氏への温かな心のこもった弔文を寄せた。つけくわえれば、加藤周一氏は「赤旗」(当時)の「黙ってはいられない」に登場し、晩年も対談で一面を飾った。

 加藤周一氏と宮本顕治氏の対談を計画し、実現させた臼井吉見氏の『蛙のうた ある編集者の回想』(1965年)の255頁以下を長く引用したい。

 《宮本氏が口をきった。新しい民主主義文学に対する要求として、小林多喜二的なものを書けとか、工場へ行けとかいうだけでは、平和的勢力を文学上に結集できないし、成長させることもできない。民主的な作家が、これまで置かれた、いろいろな立場を考える必要がある。戦争中、書きたいことがあったが、書けなかった。その人のプロセスからみれば、それを片づけなければ、別の新しいことにとりかかれない作家の必然性、それを見なくてはならない、という意見が、まず宮本氏から出された。僕は聞いていて、宮本百合子の仕事をずっと見てきた者として当然の発言と思った。
 加藤氏がいうには、日本の現在の社会には、さまざまな面がある。心理的な現実、社会的な現実、それらが複雑にからみ合っている。それを正しくとらえることが、民主主義文学に貢献しないはずはない。太宰治が、戦後の一つの心理状態を描いて、多くの読者をつかんだ。それが現代のある心理的な相をとらえたとすれば、それが否定的な現実であっても、ある評価は成り立つはずだ。太宰に対する正当な批判は、彼の描いた現実をそれとして認めながら、そのだらしなさを責めるべきだ。民主主義の批評家は、太宰の問題としたところを問題にせず、軽く上から否定するだけで、彼が描いたものがどれほど現実に食いこんでいるかに注意を向けない。向ける者は肯定するにすぎない。
 そんなところから、しばらく太宰論のやりとりがあった。それは、少しずつ食いちがいながら、いや、多少の食いちがいのために、形のちがう歯車がうまくかみ合うような、けはいが見えてきた。宮本氏の表情には、明らかに、相手を見直した驚きと信頼に似たものがまじってきた。》
 
 太宰論のやりとりが、歯車のようにかみ合い、宮本氏と加藤氏との間に信頼に似たものがまじった様子を見た臼井氏の描写には、なぜか、とてもワクワクする。

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