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2008/04/29

『思想地図』第1巻を読む

 人間が滅びるという徴候の一つが、オゾンホールの破壊、紫外線量の増加(?)に表現されているとすれば、もはや、人間は、暗黒の世界に生きるしかならなくなるだろう。近い将来。皮膚がんの死者が増えることが予測され、日光過敏症(?)などにもかかるという。いまでさえ、春で10分、夏で5分しか日光にあたるぐらいでやめておいた方がいいというのなら、イスラム世界に学び、ラマダンのように、夜になって楽しめばよい。しかし、みんながみんな夜の世界を楽しみ始めると、電気消費量が未曾有に拡大する。省エネキャンペーンが、やはり叫ばれることになって、大多数の人は、蝋燭の光で過ごすことを余儀なくされるだろう。蝋燭も不足すれば…。戦争行為が、愚かなのは、地球を滅びる速度を加速させてもいることだ。

 人生で一番確実なことは、生まれて死ぬことだろう。子どもがいれば、子どもに遺伝子が伝わる。だから、死なないとも言い張ることも可能だろう。しかし、ある遺伝子とある遺伝子が結合し化学変化を起こした個体としての「生」は、やはり一回かぎりのものだといわねばならない。ビル・ゲイツのような金持ちも、どんな貧乏人も死ぬ。平等である。不平等は、その生が権力者や為政者によって縮められる(死が早められる)ことだろう。

 戦争は、平等であるはずの死を、死を早めさせられた者と死を早めさせた者に分ける。この定義だと、交通事故による死者も、戦争による死者と変わらないことになってしまう。交通戦争と戦争を分けるのは、国家から命令を受けて合法的な殺人を行ってよいと許可を受けた者によって与えられる死が戦争による死である。

 一方、国家によって戦場に駆りたてられて、不慮の死を遂げるのも戦争である。ここに厳然と、唐突に、戦争と国家、戦争と人間の問題が浮上する。なぜ、戦争なら、合法的な殺人となるのか。戦争のかたちをとらない殺人は、なぜ、裁判官らの恣意的な解釈にゆだねられるのか。戦争とはかたちをかえた政治の延長であるが、政治とは、人間の思想そのものである。

 経済的に支配的な思想が、政治的にも支配的な思想として、強圧的に人々の生活に影響を与え、改変する。少なくとも、こうした問題を考えることを避けて、現代の思想を考えることは不可能であるように思う。そして、思想家には、戦争の思想に抵抗する、対抗する軸なり、戦争に代わりうる何かを提示することが求められているのではないだろうか。

 もし、戦争に貢献するような「思想」があったとしたら、それは殺人の哲学であり、緩慢な、遠まわしの殺人技術の説明書であるにすぎない。「思想」ではなくて、経済的に支配的な思想に乗っ取られた言説だといわなけれならない。欺瞞に満ちた世界で、国家による殺人をなくすことは可能だろうか。イラクやアフガニスタンなどに展開する米軍を支援する日本という「国家」が殺人に手を貸していないといえるだろうか?

 東浩紀、北田暁大両氏の編集による『思想地図』(NHK出版)も、やはり、各論者に通低しているテーマは、「国家」である。あえて、「抽象的思考」に徹しようとする意図も、「論壇」を意識したものであることは、ひとまず、理解できる。
 しかし、「国家による殺人をなくすことは可能だろうか」との問いに答えてくれる論考は、この本の体裁をとった「思想誌」にあるだろうか。

 次のような部分に目をとめた。北田暁大と萱野稔人と東浩紀の鼎談「日本論とナショナリズム」のの最後に近い部分で、「国民は株主? それとも従業員?」と小見出しのついたところである。

 東はいう。「いまなぜ僕たちの世代がナショナリズムや愛国を問題にしなければならないかというと、日本という『企業』の株価が急に下がり、売り上げが落ちてきたという認識があるからでしょう。だから、みんな愛社精神を発揮しよう、業績をあげるためがんばろうというのが公共性の再構築とかナショナリズムの再考とかの話ですよね。しかし、株主なら違う発想になる」
 萱野はいう。「…国民国家が他の国家形態とくらべて特殊なのは、国民が株主でもあり、従業員でもあるというところです。つまりたんなる従業員から株主になれた自体にナショナリズムの働きがあるということです」

 この後に東が、株主のライフスタイルでいいのではないかという趣旨のことを言い、北田が議論を整理する。「突き詰めていけばお二人の対立点は、暴力というものに対する認識の相違に由来しているといえるのではないでしょうか」と、うまくまとめつつ、しかし、残念なことに「今日の鼎談のテーマとはズレてしまうので、またの機会にできればと思います」と鎮火させてしまう。

 一言でいえば、中途半端な鼎談で、読み手の期待は裏切られる。今後、彼らの暴力をめぐる議論がどうなるのかという続編への期待だけが残る。番組の途中で流れるCMのようなもので、「思想誌」として徹底的に考える論議を期待している向きには、不満のみが残る。
 国民を国家の株主としてとらえていこうとする東の議論は、新自由主義の延長線上にある議論に似ている。すなわち、財界や自民党の一部政治家がいうように、国民はすべて投資家になれという主張と似ている。事実、政府は、そのようなリポートを作成中である。アメリカの要求は、単純化していえば、日本国民が預貯金をはたいて金融に投資せよということなのだから、国民を株主と考える発想が、とくに目新しいものとはいえない。もし、詰めて考えて、その社会で経済的に支配的な思想に辿りつくとすれば、それは現状追認の思想でしかない。肝心なのは、解釈ではなく、変えることだ。しかし、現状を変えるにはどうすればいいか。

 『思想地図』掲載の芹沢一也「〈生への配慮〉が枯渇した社会」は、ある野宿者の女性の死や死刑制度を入り口にして、「国家による殺人をなくすことは可能だろうか」との素朴な問いかけにも真正面から答えてくれる好論文である。すくなくとも、現代日本社会を誠実にとらえ、近代史のなかに国家による〈生への配慮〉を探っている。この論考を載せたのも、編集者の東と北田なのだから、どこかで芹沢と問題意識を共有しているということなのだろうか。それはともかく、新自由主義という一言で、現代の日本社会の分析がすべてできてしまうかのような隘路に陥っている者への再考を促す好論文である。試行錯誤の過程を読み手と共有しようという書き手の配慮のようなものが感じられる。芹沢の意見のすべてに賛同するわけではないが、もう一度、徹底的に考えなおしてみようという意味での「抽象的思考」の淵源を示してくれる点で貴重である。

 作家の浅尾大輔を編集長に5月に『ロスジェネ』(かもがわ出版)が創刊される。素朴な疑問に答える論考を期待したい。

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