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2008/02/17

野獣死すべし2 あるいは「野獣」の欺瞞

 われながら、負の韻律が満ちているブログを書き連ねていることに、自責の念がないわけではない。しかし、あえて、こういうことを書き連ねるところに「アドルノ的」たらんとするへそ曲がり性、不貞腐れ具合、うっちゃり感、開き直り度が顔を覗かせるので、驟雨がとおりすぎるのを待つように、あるいは、他のブログへ移られ(なんと素晴らしいブログが多いことか)、ノワールに占拠されているブログを読まずに過ごすのも一考かと思うので、今回も捨てブログ(このような言葉があるのかどうかは知らないが)として記す。

 大藪春彦(大藪と書くのか、大薮と書くのか、ご本人はこだわっておられたはずだが、いまとなっては、彼のファンに聞くしかない)原作の『野獣死すべし』の読後感も、後日書いてみたい。しかし、今は、別作品ともいえる映画の話にこだわる。あらすじ紹介は、ひとまず休憩。

 ちなみに今回の新宿での「野獣死すべし」上映は、1月26日~2月1日までで終わっている。今は別の「裏切り」映画をこぢんまりした館で見ることができる。2月23日から「裏切りの闇で眠れ」というフランス映画新作のロードショーがあるために、劇場側が、過去の欧米、日本の犯罪の闇映画をかき集めて特集してくれている訳で、「アドルノ的」も、まんまと、そうしたキャンペーンに乗せられたともいえる。劇場映画特集企画者、あるいは映画会社のキャンペーン担当の選択眼の中で泳いでいるに過ぎない訳である。ひねくれて見る側は、そうした機会を利用して映画を見たのだと強がることもできよう。アドルノ先生(1903~1969)ならば、辛辣な言葉で犯罪映画の欺瞞について指摘してくれるのではないか。本当の「犯罪」を隠す犯罪映画の欺瞞について。

 しつこいようだが、角川春樹による角川映画という欺瞞。ベトナム戦争などの下品な戦争、卑劣な戦争という背景を一見踏まえているような欺瞞。「野獣」をとらえる欺瞞。松田優作をここまでこの映画にのめりこませた欺瞞等々、いろいろな渦の層を剥いでゆくと、この映画に残るものは少ない。恐らく、いまとなっては、松田優作ファンを喜ばせ、楽しませるためだけに作られた映画という側面が強いと思われる。伊達邦彦という主人公の屈折、狂気を描くのであれば、別な角度からの接近方法もあったであろう。列車のなかでのロシアン・ルーレットも、映画としては二番煎じを免れない。それにしても、なお、珍しく成功した場面といえるのは、銀行強盗を企てるなかで、恋人を無表情に射殺する伊達邦彦の姿である。長崎・佐世保の銃撃事件も連想させる「野獣」の刻印は、この場面に一番凝縮されている。松田優作の長セリフの場面も興味深いが、「野獣」をくどくどと説明するのは野暮というものではないか。「神」などの陳腐な概念をあえて出す必要もない。なぜ、伊達邦彦が「野獣」にさせられたのかをえぐるべきだろう。

 ほんとうの「野獣」、資本主義のクリーチャーは、ぬくぬくと日本の温室空間、温室社会のなかで生きている。映画は、こうした「現実」をまったく観客の目から隠してしまう。いま、現在の、日雇い派遣の若者たちをモノ扱いして恥じない「野獣」こそ裁かれるべきなのだ。労力を搾り取るだけ搾り取り、ただ働きさせておいて、なぜ罰せられないのか。

 犯罪と犯罪映画とは違う。自明である。健全な市民も、「犯罪映画」を見ることは可能である。では、犯罪とは何か。不思議なことに、法律書には、「罪」になることが列挙されている。では、「罪」として列挙されていないことをすれば、「罪」ではないのか。ここに欺瞞が生じる。「野獣」は、資本主義に飼い慣らされた人間の別名に過ぎない。ほんとうの「野獣」は、やはり別にいる。(つづく)

 

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2008/02/10

野獣死すべし

 映画「野獣死すべし」。東京・新宿の映画館で久しぶりに上映していたので見た。テレビで何回も放送されていると思うし、DVDも出ているのだから、とくに映画館で見なくともよいような気がするが、実際にこの映画が上映されていたときは、「子ども」(どうみてもオッサンなのに、いまでも子どもみたいなものだが)時代だったので、東宝のゴジラ映画や東映まんがまつりなどの方に関心があり、しかも、角川映画という、いわば、本を売るために映画をつくった的な映画への偏見もあって、対象外だった。そんな御託を並べる前に、この映画は、まあ、子どもが見てもわからん映画だ。R15指定ぐらいにはなるだろうか。しかし、R…って映倫が決めているのだろうが、そんな指定をしたところで、規制できている訳でもないし、「検閲」の臭いがして、いやな感じ。

 さて、「野獣死すべし」。いわずと知れた松田優作主演の、ぶっ飛んだ映画として有名なのである。久しぶりにこの映画を見ると、別の映画「蘇る金狼」と頭のなかではゴッチャになっていることに気づいた。映画館には松田優作のコアなファンらしい人もいたような…。映画の製作過程で、松田優作が脚本をどんどん書き換えて、長々としたセリフをいうことになった場面がある。例の「神をも超越している」という言葉が飛び出すシーンである。鹿賀丈史演じるやくざ者に、野獣への変身を迫るのだが、長回しである。とにかく監督と俳優が結託して、原作をどんどん離れていってしまった部分があるのだから、本を売りたい角川春樹(当時、角川書店社長)としては、まあ、映画と本の違いを捜してください、みたいなノリだったのだろうか。

 ベトナム戦争を取材した報道カメラマンの過去が、恋人をも撃ち殺す野獣への転換を促すというふうに読み取れるのだが、しかし、東大経済学部を出たエリートが銀行強盗殺人を展開し、野獣になるという意味で、オウム真理教の事件を思い出させもする。およそヒューマンなドラマの対極にある。倫理からこの映画を断罪すれば、いくらでも言葉を費やすことができるので、なぜこのような映画が誕生したのかという推察をしてみたい。それは文明の野蛮化を考えるうえで有効であるかもしれない。

 最初のシーンは、土砂降りの雨から始まる。帰宅する刑事。その刑事を松田優作演じる「野獣」が襲い、拳銃を奪う。この奪った拳銃が、後の銀行強盗に使われるという伏線となる。そうした荒々しい場面から一転して、交響曲の演奏会のシーンになる。日比谷公会堂なのだろうか。古い講堂みたいなホールで、長々とした演奏シーンが続く。このあたりに当時の日本映画の感覚が残っている。人間の時間感覚は時代とともに変わってきているようだ。1970年代以前の映画を見ると感じる。(松田優作主演の映画「野獣死すべし」の劇場公開は1980年。撮影は1979年だろうか)

 松田優作演じる野獣は、この演奏会のシーンでは、能面のような表情に努め、死人を意識しているように見て取れる。この男の隣には、野獣と知らずに思いを寄せる女性が座っている。(つづく)

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2008/02/05

テレメンタリー 宮嶋武広さんの死

 テレビ朝日系列のドキュメンタリー番組「テレメンタリー2008」は、おそらく、現在進行形の深刻なテーマを追いかけることにかけては、もっとも勇気がある、言葉をかえれば挑戦的、あえて言えば仮借のない番組だろう。つまり、悲痛な死、小田実の言葉を借りれば「難死」を真正面から扱っている。そういう番組は、希少である。
 
 「責任放棄~北京五輪出場、最有力 競泳選手の死が投げかけるもの」(2008年2月4日放送)。日本体育大学にいた学生、宮嶋(宮崎ではない。訂正します)武広さんの死。それも中国という異国の地、標高1700メートルの高地トレーニング中の突然の事件である。両親は息子の死の原因、理由を知りたい。しかし、大学側の説明は、彼が水泳中に痙攣し、プールから引き揚げたところ「脈ナシ」という説明。ところが、一年たって両親が、当時の事件現場にいた女性に聞くと、「微弱な脈はあった」という事実を知る。しかも応急措置が講じられていなかったことも。

 つまり、ほんとうは助かるはずの命を、助けることができなかったという事実が判明する。なぜ、助けることができなかったのか。番組取材の記者、プロデューサーは、この点を、他大学の教授らに取材する。4分以内であれば、救命することは可能だったという。恐るべきことに、過酷な練習なのに、選手の健康に配慮する手立てがまったくといっていいほど準備されていなかった。

 息子の死を思う両親の姿は、テレビ番組を見る者にも、原因究明の必要性を強く感じさせる。あえて母の涙を記録した番組取材者の意図は伝わる。大学側の取材拒否は批判されてしかるべきだろう。現状では、大学側が今回の事件の何を反省しているのかもわからないし、その後、どのような対策が講じられたのかも不明のままだ。同じ事件が違うかたちで再発する恐れは十分にある。そういう恐ろしさも伝わる報道ぶりだった。

 スポーツは、実は体に良くない。というか、ハイレベルになればなるほど肉体を酷使する。選手の命を削る。健康とは逆の現象が発生する。スポーツの野蛮化である。こんなものがほんとうにスポーツなのだろうか。オリンピックで勝つために、不完全な環境をさしおいて、しゃにむに邁進する。ローマの奴隷と何が違うのだろうか。

 しかし、放送時間が深夜、未明である。誰が見ているのだろうか。2月4日放送というよりは、5日未明放送ではないのかと思うのだが、具体的にいえば、2月5日午前2時40分、テレビ業界的にいうと2月4日26時40分(テレビ朝日)ということになるらしい。丑三つどきである。 新潟の人は、午前11時に番組を見ることができる。うらやましい。各地で放送時間が異なる。テレビ朝日よりも、もっと遅い時間帯で放送される地域も多数ある。スポンサーがほとんどつかないのだろう。「シビアな番組=スポンサー捜しもシビア」という等式である。

 良い番組ほど、大多数に見られる時間帯に放送されない。良い新聞ほど…。良い本ほど…。
 

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2008/02/03

モラルと経済

 奇妙なことに、一部の経済学者(多数の経済学者)は、資本主義を維持することを前提にしている。彼らが、その前提を詳しく説明してくれることはめったにない。自明の理という訳である。「自由」とか「民主主義」という言葉への言い換えで、資本主義の経済について論じている。これは、経済学者として当然の態度といえるだろうか。「自由」を強調しながら特定の経済体制しか念頭に置かないのは、矛盾している。ただ、経済民主主義を唱えているのは、日本共産党であるが…。

 経済、平たくいえば、人間の生活の歴史には、さまざまな移り変わり、変遷がある。同時並行的に「社会主義をめざす国々」もある。固定観念や思い込みに囚われることは、科学とは無縁のはず。現に資本主義なる経済様式で、地球破壊の加速度が増していることがハッキリしているとすれば、地球で人間が暮らしていく上で、最適、最善の経済生活をめざす方向へ再考することは、一部の経済学者にもあってしかるべきだ。

 今年、田舎へ帰って、ある建設業者が無惨に山を切り崩し、醜悪な宅地造成(ギリシャ・ローマ風の、むしろナチス・ドイツ風といった方がいい)を進行させているのを目の当たりにして、こんなことが、まだやられていることに衝撃を受けた。ふるさとの山が消えていく。文明が野蛮化しているのは、人格化された資本の仕業と考える。

 意外なことに、海外の経済学者に認知されている日本の経済学者、都留重人や森嶋通夫、置塩信雄らは、マルクスを理解しようと努めた人たち、マルクスの『資本論』を読みこんだ人たちだった。かつて、ポール・サミュエルソンは、1920年代以降の、日本におけるマルクス人気について注意を促していた。

 唐突だが、マルクス経済学者も、処方箋の開陳に終わるのではなく、モラルと経済の関係についての考察を深める時にきているのではないだろうか。いやいや、もうやっています、考えていますというなら、早く論文なり、本にして発表してほしい。すくなくとも日本の書店の経済コーナーを眺める限り、日常生活の、政治の、経済のモラルを全体として語る経済学の本を見つけることは難しい。ケインズが注目されるのは、伊東光晴が強調するように、モラル・サイエンスの側面を兼ね備えているからだろう。資本主義を前提する経済学者たちに警告を発し、議論の土俵に乗ってもらうためにもモラル・サイエンス論争が起こらないかと願う。
 

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