« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

2007/08/30

格差社会の克服

 神戸大学の二宮厚美教授が書いた『格差社会の克服』(山吹書店発行、JRC発売)は、この間の格差社会論の理論的整理を試みた本である。

 二宮教授によると、「格差」は「修正」や「是正」にとどまるものではなくて、「克服」「打開」の対象であると明確に位置付けられる。つまり社会の病理として「格差社会」をとらえるのである。当たり前のようで、当たり前でないところの指摘が独特である。

 類書の立場とは明確に違う。何が違うのか。一言でいえば、資本主義社会論をふまえた「格差社会」論として、例えは古いが映画「マトリックス」シリーズで明確に映像化されたような、現実とイデオロギーとの落差を抉り出しているところが、違う。つまり、狂った世界のなかにいる人々の覚醒を促すのである。

 映画「マトリックス」では、人工知能をもつ機械が人間の頭脳・肉体エネルギーをも利用し、現実には存在しない仮想現実のなかに人間を閉じ込める。そして、機械は、その仮想現実を、惰眠をむさぼりつづける人間たちに「現実」と思いこませる。この仮想現実のウソくささ、胡散くささに気づいた人間たちが、人工知能をもつ機械に抵抗・反乱を試みる人間たちの物語だった。

 「下流社会」論などは、社会現象として「格差社会」をとらえていた側面が強く、それらの特徴をあげつらう傾向が強い。貧乏生活の実態を「中流」生活者(「下流」生活者予備軍)におもしろおかしく伝えることで、よしとするものだった。極端にいえば、狂った社会を容認しかねない。

 「格差社会」の実態は、とてもおもしろおかしいものでは決してない。例えば、ネットカフェ難民が、政府の数え方によると、5400人いる。この数え方が、多いのか、少ないのか、議論の余地を残す。しかし、確実にネットカフェ難民は、精神的かつ肉体的に病んでいっているはずである。

 奈良から大阪の病院へ辿りつくまでに、9カ所の病院で断られ、交通事故で流産(死亡)してしまった胎内の赤ちゃんがいた。過去には、盥回しの末に亡くなった妊婦もいた。端的にいえば、われわれの生活する日本の極めて貧困な救急医療体制の現実が、如実に示された。医療における不平等、不自由、貧困、格差の原因は、明らかである。医師不足の現状を放置し、救急指定病院数の少なさを放置し、産婦人科の衰退を招いてきた自民・公明による「命」軽視の政治がある。

 「格差社会」が人間の命を蝕むものであることを、二宮教授の本は教えてくれる。本ブログは、二宮教授の著書を紹介するものではない。二宮教授が提起する「格差社会の克服」という言葉から触発されたことを少しだけ書き連ねたにすぎない。

 マルクス先生(1818~1883)の学問を縦横に生かした「格差社会」論として、二宮教授の著書を推薦したい。

| コメント (0) | トラックバック (3)

2007/08/24

月蝕歌劇団「寺山修司 過激なる疾走」

(57)月蝕歌劇団「寺山修司 過激なる疾走」紀伊国屋ホール

 月蝕歌劇団の舞台を初めて見たのは20年前になる。関西の某大学へ公演にきたのだ。訳のわからないうちに始まり、訳のわからないうちに終わっていた。身体的なアクション、身振りだけを覚えている。それでも、学生たちは大いに笑った。少なくとも刹那の演技、熱意は伝わってきた。学生の誰かが月蝕歌劇団に入団したか何かで、カーテンコールで挨拶していた。彼は今、有名な劇作家になっているはず(東京・渋谷のパルコ劇場で上演されていたような…)。

 当時、某大学では演劇は極めて盛んであり、後に岸田國士戯曲賞をもらうことになる一年上の学生も、さかんに自前の戯曲を書いて上演していた。卒塔婆小町の名声も、興味関心のない学生の耳にまで届いてきた。どちらかというと、鴻上尚史や北村想らに人気があり、彼らの戯曲が学内で何度も上演されていた。

 20年前に見た月蝕歌劇団には、宮沢りえ(丁度、人気が出始めたころ)に似た美少女俳優がいたのを覚えている。若い女性の俳優が多く(劇団青い鳥なんて女性ばかりの劇団もあるが)、こういう劇団もありなのかという新知識を与えてくれた。客席に髪の毛ぼうぼうの高取英(劇団主宰者)がいて、世の中にこんなに髪の毛が長い男がいることに驚いた。そして、2007年8月23日、紀伊国屋ホールで初日を迎えた「寺山修司 過激なる疾走」で久しぶりに、遠くからではあるが、客席をせわしなく動き回る高取英を見た。20年の歳月を感じないわけにはいかなかった。髪の毛は長いままだったが、ほんとうに年をとっていた。

 (以下、ネタバレが少しあります)

 寺山修司の人生を高取英が劇化したというので、とても期待して見た。寺山修司は、歴史に深い造詣をもち、みごとな戯曲を書き、そして、客席の想像力を刺激する仕掛けの多い言葉を俳優の口から連発させた。『人間を考えた人間の歴史』なんて寺山修司が書いた本も、とても面白い。奇才の作品だと思う。「あしたのジョー」の葬儀をおこなった人物であり、「あしたのジョー」の歌をカラオケで歌おうとすると、「寺山修司 作詞」なんて出てきて、「えっ?」と忘れていた何かを思い出す驚きもある。しかし、高取英の今回の戯曲は、ヘタをすると、20年前よりも後退しているかもしれない。退屈そのもの。2時間は誠に苦痛であった。寺山修司の言葉を引用する瞬間は、とても光彩を放つのに、その言葉すらきちんと客席に伝えることができない俳優陣にも幻滅させられた。寺山修司の言葉の引用以外は、練られた言葉ではなく、ダラダラした印象。筋にも意外な展開が何もない。この20年、一体、何をしていたのか。奇才の人生をフォローし、トレースするのは、凡才には、とても難しいことなのだ。これは自戒でもある。

 怒りが増幅したのは、初日の開演が10分も遅れたこと。開演後も遅れてきた客を後から後から客席へと誘導する。芝居に全然集中できない。失礼である。これが文学座なら、きっちりと分秒単位で幕が開く。つまり、開演を特別な理由がないのに10分も遅らせるなんて、プロの劇団のやることではない。客の入りが悪くて遅らせることはある。しかし、9割近く客席が埋まっていたのに、10分も開演が遅れたのはなぜか。何の説明もない。

 月蝕歌劇団は、たえず新しい俳優の加入で更新が繰り返されてきた劇団のようである。新人の登用で芝居が活性化されることはあるだろう。ところが、基本の演技そのものが下手すぎて、とても紀伊国屋ホールにかけられるものではないと思う。下手さの根本原因は、セリフの発声にある。大勢で一つのセリフをいう場面が何回かあり、それは確かに難しいものだが、そのことに稽古の8割が費やされてきたのではないかと思わせる。個々の俳優の単独のセリフが聞き取れない、早口すぎる、もごもごいっている。出演者が43人もいる。出たりひっこんだりも多すぎる。大久保鷹ほどの有名俳優を招いているのに、彼の出番が少ない。しかも、周りの演技が拙いので、大久保鷹の怪演がまったく光らない。

 肝心の戯曲はどうなのだろう。寺山修司の身体に影響を及ぼすことになる輸血、及び、彼の父が戦争で死んだこと、寺山への母の影響について掘り下げようとしている点は、評価されてよいだろう。寺山修司の母が叫ぶ場面の前後が、今回の公演で、一番ドラマになりうる場面。しかし、それ以外は陳腐そのもので、想像力すら刺激しない。SMチックなボンデージ姿の女性たち(実はメフィストフェレス)が舞台に並べば、それで客席を刺激できる時代ではない。20年前と違う。演劇もかなり変化している。恐れながら、他の劇団をもう少し参考にし、技をどんどん盗むべきではないだろうか。

 唯一の救いは、修司(中年期)役の岡崎哲也の顔、姿が、本物に似ているということだろう。湯船に浸かる美輪某を模した俳優の登場する場面は、中途半端なやりとりに終始し、美輪さんに失礼ではないだろうか。笑いもとれない。

 もう一度、戯曲を練りなおし、登場人物をすっきりさせ、セリフを客席に完璧に伝わるようにしてほしい。そうでないと、これは素人演劇だ。寺山修司が、もし、生きていて、この芝居を見たら絶句するのではないか。批評の対象にすらならない。もう「過激なる疾走」どころではない。こちらが劇場から失踪したくなる。残念ながら、今のところ、本年度のワーストワン。反論を待つ。

| コメント (0) | トラックバック (1)

2007/08/20

アドルノ先生とテレビ

 先月から今月にかけてアドルノ先生(1903―1969)の研究書およびテキストが、珍しく3冊出る。一つは、すでに本ブログでも触れたマーティン・ジェイの『アドルノ』(岩波現代文庫)で、アドルノ先生像を日本の読者が知る上で多大な貢献をした本だろう。テキストとしては新訳の『新音楽の哲学』(平凡社)。これはゆっくり読みたい本である。岩波文庫で『啓蒙の弁証法』が出たのが年初だから、俄然、アドルノ先生に注目が高まっているといっても過言ではない。

 研究書として注目されるのは、竹峰義和氏『アドルノ、複製技術へのまなざし 〈知覚〉のアクチュアリティ』(青弓社)である。今年33歳、新進気鋭の研究者。アドルノ的筆者は、『未来』に連載(2004年5月号―10月号)された「ハリウッドのアドルノ」を大変おもしろく読んだ。アドルノ先生の生誕100年を契機にした諸研究をふまえている。

 今回、竹峰氏の本を出版した青弓社の編集、本の装丁は、残念ながらアドルノ先生の美学とは遠いところにあるのではないか。本の題名の長さは、著者にも責任があると思われるが、装丁については朱色というのか柿色というのか、刺激が強すぎる。これくらい派手にしないと鈍感な読者の手にとってもらえないと思ったのだろうか。研究の出来栄えがよさそうなので、あえて、今後への期待をこめた嫌味をいう。

 竹峰氏の研究書は、複製技術―すなわちラジオ、テレビ、映画に対してアドルノ先生が批判的だったという評価を覆すことを意図して書かれた。画期的といえるだろう。

 これまで、アドルノ先生の文化産業論として注目され、「マスメディア論」としての注目は比較的少なかった。それだけに、本書を手がかりにして、本格的かつ科学的なテレビ論の登場を待ちたいところである(実際、テレビを見る者は多いが、これを研究対象として見る者は少ない。テレビからもたらされる情報の過剰さ、あるいは速報性に由来する言論の軽薄さ、思想の希薄さにも原因があるだろう。しかし、例えば、テレビ番組批評は、いまだに短い断片的な文章がほとんどである。本格的なテレビドキュメンタリー、歴史を扱った特集番組などを、番組の作られ方、社会的な受けとめられ方も含めて論じることの重要性は、ますます強まってくるであろう。安倍、中川ら自民党政治家の関与で改変されたNHKの番組の検証は、本格的テレビ論への序曲となるだろうか。期待しているところなのだが。この点でメディア・リテラシー論も一面的な印象をぬぐいきれない。反論を期待したいところ)

 とくに第5章「いかにテレビを見るか」は、著者の問題意識が鮮明に出ている。マクルーハン理論やカルチュラル・スタディーズの先駆としてアドルノ先生が浮上する。しかも、アドルノ先生が、ロサンゼルス・タイムズ紙の星占い欄の研究とともに、とりくんだのが、アメリカにおけるテレビと視聴者の分析であり、とりわけ、テレビ論に精神分析的な観点を導入したことが注目されると指摘する。その後、亡命生活を終え、ドイツにおける過去の克服の問題にとりくむなかで、「メディアとしてのテレビを批判的に変革するための手段」も検討していたことも明らかにする。関心をもたれた方は、竹峰氏の著書の第5章を読まれることをおすすめする。

 余談だが、日本テレビ系24時間テレビも、この国の福祉の貧困さの反映である。歪んだ予算配分、財政構造、とくに低所得層を狙い撃ちにする自民党政治の反映である。丸山某弁護士など自民党参院議員が大きな顔をして番組に出演しているのは、本来、おかしいことなのである。視聴者をマヒさせてしまうテレビ局側の判断基準のなさ、思想のあいまいさを指摘しなければならない。募金ボランティアを否定するわけではない。力を合わせて誰かを助け、救う体験は重要である。お金の使われ方を再認識するうえで有効な側面もあるだろう。しかし、根本的には、政治において解決されるべきものであることは明らかである。

 さらに余談。翻訳を期待したいのは、アドルノ先生の『Dream Notes』(Polity2007)。アドルノ先生は、自分が見た夢をノートに記していた。明らかに、フロイトの影響を垣間見ることができる。夢のいくつかは、以前に刊行されたり、遺稿集に含まれていたりしたが、さしたる重視もされず埋もれていた未刊の部分が編集をほどこされて初めて、きちんと読むことができるようになった。
 1934年1月にフランクフルトでアドルノ先生が見た夢から始まって、1969年4月12日にバーデンバーデンで見た夢までが収録されている。
 例えば、1942年9月13日、亡命生活中の米ロサンゼルスでシェーンベルク68歳の誕生を祝う夕べの招待をうけたアドルノ先生は、午後2時から4時まで深くまどろんでしまう。夢のなかで先生は実際の生活ではしないというサングラスをかけたりしている。そして、異常に背の高い男と出会う―。

 アドルノ先生は、「夢は『死』のように暗い」という言葉を残す。反語的にとらえると、「現実生活は命のように明るい」となる。あくまでも現実生活の中でたたかえということなのだろうか。アドルノ先生の「明暗」の観念を示すものとして、この言葉を楽しんでいる。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/11

こまつ座「ロマンス」

(56)こまつ座「ロマンス」東京・世田谷パブリックシアター

 井上ひさしの新作戯曲「ロマンス」である。演出は栗山民也。今回は、シス・カンパニーとの共同制作。しかも、4大戯曲を書き、いまなお上演されるアントン・チェーホフの物語である。9月30日までの超ロングラン公演なので、なんとか時間をやりくりして、劇場にかけつけてみてはどうだろうか。以下、ネタばれがあるので、見ていない人は、読まない方が…。読んでも影響しないように書いてはいるが(というか、影響を与えるには及ばない感想)。

 これまで、石川啄木、樋口一葉、太宰治、林芙美子などの文学者や、河上肇、吉野作造らの学者、道元ら宗教者、シェイクスピア、薮原検校、丸山定夫、園井恵子といったところを描いてきた井上だが、とうとうチェーホフである。しかも劇中で、謎とされているトルストイとチェーホフのご対面まで描いてみせる(この場面は、どちらかというと、吉本新喜劇ふうになっている。見てのお楽しみ)。「あんなトルストイでいいんかいな」とつぶやきながら、笑いに隠された言葉もかみしめたい。チェーホフ好きには、いろいろ楽しめる場面があるのだろうが、いかんせん、アドルノ的筆者も、チェーホフの芝居をそんなに見てはいない。黒テントの「かもめ」を見ることができたので、かろうじて、パロディーのところも少しわかった。

 しかし、今回の話題は、どちらかといえば、大竹しのぶ、松たか子、段田安則、生瀬勝久、井上芳雄、木場勝己という豪華競演者を一堂に会してみることができる魅力が大きい。俳優の魅力で観客をひっぱる芝居になっている。とにかく、これだけの俳優、歌手が2カ月間、一つの舞台にそろうのは、スケジュール的に相当難しいはずである。いうまでもなく、映画は、一つの舞台ではない。

 大竹しのぶというのは、怪物女優、略して怪優であることを「現認」した。瞬時に、チェーホフの世界の匂いを漂わせるかと思えば、コケティッシュな、可愛げのある演技から、コテコテのコメディーまでこなせる。大竹しのぶを見るつもりで劇場まで足を運べば、おつりがくるだろう。
 松たか子と井上芳雄が良い。井上芳雄は本格的な歌い手なので、うまいのは当然としても、松は、ミュージカルで鍛えた歌唱力を見せる。紅白歌合戦に出場した歌手でもあるからして、これから、こまつ座の芝居にドンドンでてほしいところ。2カ月近いスケジュールをこまつ座に捧げるなんて、松たか子は偉い。

 生瀬、木場は、個性が強すぎる感じ。段田もずいぶん演技が控え目。

 おそらく、玄人の間では見解がわかれる芝居。チェーホフ好きの人はとくに。それくらい、チェーホフというのは、複雑でおもしろみのある人間らしい。井上ひさしが惚れこむのだから。
 2人の女性の確執、演劇とは何か、文学とは何かを問うなかで、笑いの哲学の追究をしつつ、ヴォードヴィル論の展開あり、未来と現実をどう考えるかという苦味もありで、井上ひさしの十八番。ずいぶん複雑な主張を甘い菓子でくるんでいる。

 注目したいのは、井上ひさしが演劇を一から考え直そうとしている徴候が現れていることだと思う。モノローグで話をつなぎつつ、ヴォードヴィルふうに場面を展開し、スタニスラフスキー・システムへの反論、批判をこころみている。ということは、築地小劇場以来の日本の演劇への批判でもある。暗く、ジメジメしたものへの憎悪。笑うこと、喜劇礼賛。いろいろなことを考えるだろう。自己破壊的というか、反抗的というか、老年にしてなお、目の前の生活を豊かにすることと、未来社会との相克を観客につきつける。貧困、格差社会へのメッセージもさりげなく盛り込まれ、時代と格闘する劇作家としての信頼感をさらに増した。

| コメント (0) | トラックバック (1)

2007/08/05

花火

070804_202631
070804_202637
070804_202739
070804_202740
070804_202919
070804_202641


| コメント (0) | トラックバック (0)

2007/08/02

『図書』

 岩波書店の『図書』は、出版社の月刊PR誌では、おそらく最強の内容を誇るだろう。「最強」と表現してよいものかどうか、書きながら、疑問も浮かぶが、講談社、新潮社、角川書店、集英社、有斐閣、東京大学出版会、小学館なども、やや露骨なPRで、やや趣味に走りがちな平凡社も捨てがたいが、時流におもねらず、それでいて、時代の奥深いところとつながっていそうな(あくまでも、いそうな)『図書』は、読書人にとって魅力はある。

 加藤周一氏の「今=ここ」に生きる日本、というインタビューが『図書』8月号に掲載されている。あえて紹介はしない。読者の楽しみを奪いたくないから。今回は、これが一番の読み物だろう。巻頭にもってくる座談、対談は、どれもおもしろい。肩の力がぬけているところがいい。『世界』だと、これにややお勉強的な風味が加わって、途中で立ち止まって考えたい向きには、拝聴するばかりになる。それは、仕方のないことなのは、わかっている。『世界』があって、『図書』があるのである。それぞれの誌に求めるものは違う。

 目次でいくと、ずーっと飛ばして、鶴見俊輔氏の「できなかった問題」というエッセイへ。一月一話というシリーズ、「そのとき」というお題での続きものである。『図書』では、以前、故・中野好夫氏が匿名で長い間書いていたコーナーがあって、その復活版が鶴見氏の一月一話である。いずれ本になるのだろう。いずれ。しかし、リアルタイムで味読したい文章である。
 エッセイでちょろと書いているが、鶴見氏は、二度とUSAには行かない決意をしていることが出てくる。他のエッセイでも、書いていたように思う。今回のエッセイの主題ではないが、日米交換船で負ける側にいたいと思って、ハーヴァード大学を卒業し、軍国主義の日本へ帰ってきたのが鶴見氏である。勝つ側にいると目が曇ると考えていたフシがある。鶴見氏は、そのことを明言せず、あえて読者に考えてもらうように仕向けている。哲学者らしい態度である。何回も読みかえして、ふーっと息をぬく。これが毎回の楽しみである。

 そして、辻井喬氏がこれまた、「地霊・遠い花火」という連載小説を載せている。いずれ本になるのだろうなと思いながら、読む。辻井氏は、今、月刊誌ではモテモテの執筆者、対談者なのである。月刊誌だけでない。新聞にも出てくる。人気者である。財界人であり、作家、詩人という氏の位置が、編集者の多様性を尊ぶ趣味にあうのである。違う見方ができる人というのは、重宝されるのだ。

 トリは、このところ、ダンテの『神曲』の新訳連載である。トリが四方田犬彦氏のときもある。『神曲』は、おそらく音読すれば楽しそう。「読者よ」なんて、ダンテは呼びかけていて、「何?」と答えたくなる。

 そこから逆戻りして、ページの左端にある他の出版社の広告をふむふむといいながら拾い読みし、渡辺えり子さんのエッセイ「理不尽な『死を止めたい」に目を止める。今年は、劇作の方は休養なのだろうか。ピース・リーディングは、最近ますますスゴイ顔ぶれになってきている。テレヴィ界から干されないようにと、少し心配している。

 林望氏のエッセイは、サービス精神旺盛である。以前、養老孟司氏も『図書』常連の執筆者だった。カントの頭蓋骨についてのエッセイなどは秀逸で、今でも『図書』エッセイのなかではベスト10に入ると思う。『バカの壁』は、編集者の聞き取りだが、養老氏の地声の方が、もう少し考えさせる余分なものをもっていたと思う。この養老氏が『図書』で確保していた位置を受け継いでいるのが、林望氏、奥本大三郎氏らであろう。世捨て人的視点から、博引旁証の文章を綴る。が、荒俣宏ほどお金をかけて書いた臭いがしない。そこが良い。

 音楽エッセイは、コーヒーを飲みながら。アドルノ先生(1903~1969)、吉田秀和氏がベストだが、青柳いづみこさんも健闘している。ただ、ネタの振り方に新鮮味がほしい。いずれ本になるのだろう。『図書』では故・岩城宏之氏、黒沼ユリ子さんが音楽エッセイの二大巨頭といっていい位置を確保していたことがある。時代は変わる。

 間宮陽介氏に読書エッセイを書かせる岩波書店は偉い。学者の読書生活はどんなものか。『女性セブン』や『女性自身』ではないが、野次馬的関心事である。『図書』から生まれた読書エッセイでは、湯川秀樹氏の『本の中の世界』という驚嘆すべき本がある。何年かの単位で読み返すが、いまだに湯川氏の文章の神経の細かさ、バランスのよさ、集中力に圧倒される。とにかく読んで心地よい。
 日本近現代史研究者の松尾(尊よしの「よし」の字が出ない)氏のエッセイも『図書』名物といっていい。掲載されている号はもうけもんである。
 以下、夏目漱石にまつわるもの、フランス文学(これも渡辺一夫、桑原武夫以来の伝統)、大陸もの(中国、韓国)は定番である。岩波書店がどの分野に強く、弱いかもさらけだしてしまうことにもなるのだが、それでも『図書』には、バランスの良さがある。

 あとは、パラパラと2007年度下期の主要企画に目を通し、『鹿野政直思想史論集』全7巻の企画に書き下ろし新稿があるなとほくそえみつつ、岩波現代文庫でマーティン・ジェイ著『アドルノ』が8月17日発売であることを確認する。アドルノ先生に関心をもつ読者は、8月18日以降に書店へ。17日は本が出庫する日(岩波書店とは、そういう出版社である)なので、18日以降に書店へ。後は、吉田裕著『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)8月21日発売も期待できる。吉田氏が本を出すときは、何か新発見があるはず。

 『図書』には、まだまだいろんな楽しみ方がある。これ以上は、教えない。教えてなんかやるものか。

| コメント (0) | トラックバック (1)

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »