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2007/07/30

安倍政権の終わり その10

 「21世紀旗手」と呼びたくなる、たたかう作家で、労働組合活動家の朝魚さんの「すべての宮本顕治論のために」が感動を読んでいる。
 日本共産党を大きくすることに98年(今年10月で99歳になるはずだった)の生涯のほとんどをかけてきた宮本さんを追悼し、かつ、その志を引き継ぐ決意をこめた文章である。夜を徹して一気呵成に書かれたというその文章には、重要な引用がたくさんある。芥川龍之介が谷崎潤一郎との論争で、朱筆を握って書き上げた文章「文芸的な、余りに文芸的な」を彷彿とさせる熱がある。文章は、表に出すにしろ、隠すにしろ、「熱」が大事なのだ。

 宮本顕治さんの評論の水準を「乗り越える」評論が現れていないとの指摘は、仲間たちへの苛烈な叱咤激励であろう。朝魚さんを「うんッ」と唸らせるのは、革命的な、余りに革命的な文学を必要とするだろう。

 奇しくも、参院選投票日の翌日未明に、1932年うまれの作家、小田実さんが亡くなった。九条の会の呼びかけ人の一人で、60年安保のころからのオルガナイザー(組織者)だった。大阪大空襲の体験を原点として、戦争に反対しつづけた。小田さんの文章は、小説を別にすれば、実にわかりやすい。黙っていないで、何かをしたいという人々の願いを掬い上げ、人と人をつなげるのがうまかった。小田さんの「何でも見てやろう」が、とくに同年代の人々に与えた衝撃は大きい。ベ平連仲間の開高健と共著の本「世界カタコト事典」(だったか?)もおもしろい。小田さんの政治的センスが一番いいかたちで発揮されたのは、阪神淡路大震災のときの救済策、政府への申し入れ、国会議員を共同へと動かし、導いた力だろう。「憲法九条いまこそ旬」という言葉は、小田さんの発案による。言葉の力を信じた人だった。いま、小田さんのいない世界で、小田さんの残した文章を読み、言葉を磨いてゆかねばならない。
 ジメジメしたことをいうと、うさん臭い目で「アホなこというな」と関西人らしさを発揮して一喝してくれる人が最近減った。

 安倍政権の終わり。ヨーロッパのある知識人は、「終わりの始まり」という言葉を残す。自民党に象徴される政治を変えていく始まりにしたい。自民党、公明党の者らに、「アホなこというな」と言いつづけていこう。

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2007/07/29

安倍政権の終わり その9

 歴史教育の問題で議論になるとき、必ず、「学校で明治維新までしか習わなかった、現代史を教えてもらわなかった」と言い、そっくりかえる人がいる。確かに、それは歴史教育の重大な欠陥である。なぜ、その欠陥が改められないかを問うことは、そのまま今の政治の問題に直結する。現代史といえば、まさにわれわれが生きている時代そのものなのであり、日々の新聞が伝えることそのものなのである。教えられる以前に、容赦なく放りこまれる世界そのものといえる。教える側も、教えられる側も、日々、その世界を生きている。

 なぜ、日本にアメリカ軍が居座っているかを問うとき、それは、アジア・太平洋戦争、ポツダム宣言、東京裁判、GHQ、日米安保条約を知ることになるだろう。ペリー来航まで遡ることにもなるかもしれない。となれば、明治維新ですら「現代史」なのである。すくなくとも、60代の人が子どもだった頃は、「明治維新」ですら「現代史」であっただろう。江戸時代に生まれた人が、まだ生きていたのであるから。

 ついこの間まで、侵略戦争に出かける兵士たちは、靖国神社に参拝した。そして、今も防衛大学校の学生が靖国神社に参拝する。変化はあったのだろうか。いまだに過去にならない政治の現実がある。

 少なくとも、アジア・太平洋戦争のことは、八月の新聞に登場する。単なる過去ではない。政府主催の戦没者の慰霊すらある。あの侵略戦争は、いまだに現代史そのものなのである。

 「学校で明治維新までしか習わなかった」。そういう発言には、苦笑していればいいのだろうか。腹立たしい思いもする。あなたは、ほんとうに歴史を学ぼうとしたのか、歴史を変えようとしたのか、と。歴史を変えるチャンスの一つが、選挙である。歴史教育の最大の眼目は、みずから主体的に歴史を知ろうとする人間形成ではないだろうか。阿部謹也さんは、歴史は、たたかう者にしか、その姿を見せないといった。つまり、歴史を変えようとして、はじめて歴史が姿を現すのである。マルクス主義史家ではなかった阿部さんが、晩年に到達した歴史観は、とても学ぶべきものがあると思う。西洋と日本との比較を通じて、阿部さんには、日本の「民主主義」の弱点が見えていたのではないか。

 歴史を変えるチャンスである選挙すら、マスメディアの報道によって、ねじまげられてしまう。ねじまげられ具合を知るために、どういう手立てがあるだろうか。少なくとも、「二大政党」制を狙う財界の動向を知り、テレビ局や新聞社の記者が書いた論説、本のたぐいを読み、いくつかの新聞の読み比べ、あるいは、海外の新聞、「しんぶん赤旗」と他紙との比較などがあろう。生き延びることが忙しい人間に、そんなことができるだろうか。いや、むしろ、生き延びるために重要だといいたい。今は、世論操作ともたたかわなければならない時代である。ベネズエラ革命を見ると、テレビ局をめぐるアメリカの策謀、ベネズエラ人民の巻き返しなど、政治とメディアの問題は、「革命」の最前線に位置するものであることがわかる。

 今回、滑稽だったのは、安倍首相がテレビに露出すればするほど、支持率が下がったことだった。日本国民がウソを見破る眼を育ててきたことの例証なのだろうか。となれば、改憲や増税を隠す民主党のウソも見破ることができるはずだが…。

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2007/07/21

政論家の覚え書

 以下は、引用である。

 「非常に高く、けわしい、まだきわめたことのない山にのぼっている人を想像してみよう。彼が前代未聞の困難と危険を克服し、先人よりもはるかに高くのぼることに成功したが、しかし頂上には達しなかったものとしよう。

 彼は、えらんだ方向と道を前進することは、もう困難で危険なだけでなく、まったく不可能だという状況におかれた。彼は、引きかえし、山をくだり、より長いとはいえ、とにかく頂上に行きつく見込みのあるような、別な道を探しもとめなければならなくなった。

 仮想のわが旅行者がおかれた、世界でまだ見たこともない高みからおりることは、危険であり、困難である。おそらく、のぼるときより困難は大きくさえあるだろう。つまずきやすいし、自分の立っている地点を見ようにもそううまくいかないし、まっすく目標をめざしてひたむきに上へすすむときにおこってくるような、とくに気負いこんだ気持というものもない、等々。

 自分の身体を縄(ザイル)でゆわえたり、ピッケルで足場や、縄をしっかりとゆわいつけることのできるような個所を何時間もかかってつくったり、亀のようにのろのろとすすみ、しかも後もどりし、目標からますます遠く、くだって行かなければならず、しかも、このおそろしく危険な、苦しい下降が終りになるかどうか、もう一度上方へ、頂上にむかって、より大胆に、よりはやく、よりまっすぐに前進できるような、いくらかでも確かな回り道がはたしてあるかどうかは、あいかわらずわからないのである。」(中略)

 「下のほうからただよってくるのは、人の災難を喜ぶ声である。一部の連中は、人の災難をおおっぴらに喜び、はやしたて、いまに失敗するだろう、彼がそうなるのはあたりまえだ、早まったことをするな! とわめきたてる。」(中略)

 「例をあげることは証明ではない。どんな比喩にも欠陥はある。これは――論争の余地のない、周知の真理である。しかし、あらゆる比喩一般の意義の限界を、いっそうはっきり表示するためにこの真理に注意を促してもさしつかえあるまい。」(中略)

 「われわれがいったいなにを『成しとげた』か、なにを成しとげるにいたっていないかを、できるだけ冷静に、明瞭に、はっきりと自覚すべきである。そうすれば、頭はすっきりとするであろうし、吐き気も、幻想も、意気消沈もおきないであろう。」(中略)

 「幻想にも、意気消沈にも陥ることなく、からだの力と柔軟さを保持しながら、困難きわまる任務を取りあつかってふたたび『始めからやりなおす』ような共産主義者は、失敗しなかった(また、おそらく失敗しはしないであろう)。」

 以上は、レーニン「政論家の覚え書」(1922年2月末執筆)から。

 たたかう君の歌を、たたかわない奴らが笑うだろう――中島みゆきの歌をあげるまでもなく、宮本顕治さんの死去を受けて、日本のマスメディア、あるいは卑劣な人々の言葉と行状を記憶しておきたい。産経新聞をはじめとして、朝日新聞すらも、死者に鞭を打ち、反共主義に利用しようとする。このような日本の愚かなマスメディアに対して、アドルノ的筆者は激しい憤りをもつ。

 宮本さんが、どういう人だったかをみずからの眼で見ようとした人々は、確実にいる。侵略戦争の時代に、宮本顕治さんは、百合子と書簡を交し合い、励まし合い、人間としての成長を目指した。十二年にわたる手紙こそ、未来の指針である。最良、最高の文学である。逆に、十二年の手紙すら、みずからの眼で見ようとしない人もいる。インターネット上の百科事典の弱点は、誰がその項目を執筆したかが隠されていることだ。少なくとも、平凡社の百科事典をはじめとして、正確さをめざす事典は、執筆者の名前がある。ゆえに、現行のネット百科事典は不確かな情報の集積にとどまるのである。宮本さんの十二年の獄中でのたたかいは、そのほとんどが裁判闘争だったことを知らずに、平気で網走刑務所に十二年もいたかのように書く新聞の匿名コラムニストもいる。

 不確かなネット上の百科事典で得た知識を振り回して、さもそれが事実であるかのように振舞う人がいる。その人に呼びかけたい。ぜひ、みずからの眼で宮本さんの本を読み、考えていただきたい。20世紀から21世紀にかけて、「日本」という地域に、常に「始めからやりなおす」気概をもった人物がいたことを記憶してほしい。

 狂った世界からの脱出を呼びかけた人に対して、狂った世界の住人たちが、悪罵を投げつける。予想できたことだが、とても悲しいことだ。悪罵を投げつけた人たちは、みずからの哲学の貧困を悲しむべきだろう。そして、宮本顕治さんのように生きることができるかとみずからに問いかけてみるとよいだろう。その限りなく困難な、限りなく理性に根ざした生き方について…。

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2007/07/19

宮本顕治さん

 宮本顕治さん(1908~2007)が亡くなった。知は力、自主独立、日本共産党綱領路線の人である。宮本百合子さんの夫でもある。その心臓の鼓動は、日本共産党の歴史とほぼ軌を一にしていた。

 野上弥生子さんの日記には、宮本顕治さんのことが出てくる。百合子の命日に訪問したり…。宮本さんの風貌を漁師のおっさんみたいと野上弥生子さんは書いている。大工の棟梁、あるいは柔道部の顧問、あるいは、不思議に日本の文化というか、風情をたたえた人だった。日本革命の展望、核兵器廃絶の道、多くの本が残されている。そして、十二年の手紙と称される百合子さんとの往復書簡。「『敗北』の文学」をはじめとする文芸評論。

 集団的に英知を結集し、練り上げていくことの大切さ、大局的に情勢をとらえることの意味、歴史への深い洞察など、この人の魅力はつきない。

 特高警察から樫の木の棒で足を叩かれた。額に傷があった。とにかく、暴虐な天皇制の政府の時代に、革命家として人生を始めた。文芸評論家としては、小林秀雄を2等に追いやるほどの実力者だった。おそらく、小林秀雄ファンは、いまでも、あれこれと悪口をいうのだろう。

 国際政治でも大きな存在だった。毛沢東や金日成、スターリン、ブレジネフらの干渉にも負けなかった。かと思えば、貴花田(当時)と宮沢りえのことにも関心をもっていた。獄中12年で語学力も鍛え、哲学書や歴史書を読み、困難な裁判闘争を宮本百合子さんらの支援でたたかった。そして、戦後、不当な判決を撤回させた。

 その文章には、強靭な論理がいつもあった。読み返してみても、決してやさしい文章ではない。しかし、きわめて文学的かつ科学的かつ哲学的かつ説得力があった。自らを鍛えあげた人間だった。毀誉褒貶のある人だった。とくに、財界筋、自民党筋からは恐れられた。日本共産党内でも平坦な人生ではなかった。不遇の時代もあった。それでも、資本主義の枠内で民主主義革命をめざす路線をつくることに心血をそそいだ。

 完全な人はいない。しかし、宮本顕治さんが、「謙虚でありたい」と心掛けていたらしいことは、見逃せないと思う。おそらく、その心掛けが、この人の静かな調子、雰囲気をつくっていたのだろう。

 最晩年は、とてもやさしい顔になった。とてつもなくやさしい人だったのではないかと思う。愛情の意味を、弁証法的にとらえていた人だと思う。日本革命の道は続く。哀悼の意を表します。

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2007/07/17

安倍政権の終わり その8

 阪神淡路大震災以後も大きな地震がつづいている。16日午前10時13分。朝から震災特集の特別番組をやっているのかとテレビを見て錯覚してしまった。なぜか、新潟、長野を災害が襲う。それも、故・田中角栄の実家があるところ(合併された町)も含まれていたりする。

 田中角栄については、まだ過去形にはなっていない。小沢一郎、鳩山由紀夫ら旧田中派を中心とする民主党があるからだ。旧福田派を中心とする自民党と旧田中派を中心とする民主党。田中真紀子が喝破したわけだが、たしかに、これでは選挙で選びようがない。まあ、だまされる人はいるのだろう。二大政党ならぬ二大派閥でしかないのに。

 ジャーナリストに案外、田中角栄に媚びる人々がいる。変に持ち上げたりする。おそらく、角栄にカネをもらった連中ではないかと想像する。ルポライターの故・児玉隆也も角栄からポケットにカネを突っ込まれそうになった(比喩ですので)ことがあるらしい。カネを返したという噂もある。

 まあ、ブルジョア新聞で、選挙中に特定の候補に肩入れした記事を書く記者というのは、みずからの目に正直というか。月曜日付「朝日」の「ポリティカにっぽん」で早野透が民主党の比例候補を最大限に持ち上げていた。つまりは、社論と一致するということなのだろう。読めば、持ち上げる理由もそれなりに書いてはいる。しかし、民主党が、命を大切にしている政党だといえるのだろうか。いつも楽しく読んでいるが、今回のこの記事には無理がある。

 まず第一に、民主党は憲法改悪を志向している政党である。憲法九条を変えることにはやぶさかではない。戦争につながる方向へゆく道を選択する民主党。そのような政党が命を大切にすることはありえない。

 第二に、民主党は消費税を年金の財源に考える政党である。貧しい人からも容赦なく税金をとる消費税。年金生活者からも税金をとる消費税。将来的には税率がアップする可能性が十分すぎるほどある消費税。そんなものを財源にして、600万円の世帯やら、1200万円の世帯などといって線引きをして、年金を「安心」にできるという。発想がおかしい。そもそも、選挙で生活がどうのこうのというスローガンを言う資格がない。

 第三に、民主党は政党助成金がないと成立しない政党である。あのテレビで流れているCMも、いわばわれわれの税金でつくられている。税金の使い方にむとんちゃくな政党であるといえる。参院副議長だった民主党出身の議員が辞職したことも記憶に新しいというのに。小沢代表の資金管理団体も巨額の不動産取得の疑惑がある。カネについては自民党田中派なみに不透明だ。

 第四に、第一とも関連するが、侵略を正当化する靖国神社に参拝する国会議員が、自民党に次いで多いのが、民主党だ。靖国神社の、みたままつりにも、小沢一郎という献灯がある。安倍晋三という肩書のない献灯の列にある。靖国神社の遊就館を一度、見てみればいい。戦争を反省しない思想に満ちている。「私たちは忘れない」という映画のヒステリックなこと。現在の平和があるのは、戦後、もう戦争はいやだという人が多数派になったからだ(多数派でなくなったときが、危ない)。戦場へいって死ね死ねという宣伝にあふれている靖国神社に、献灯なんてする人が代表をやっている政党が、命を大切にする訳がない。「朝日」早野透コラムニストは、完全に見誤っている。

 第五に、民主党は、派遣労働者があふれる日本へ賛成した政党である。労働者を平気で差別する。派遣労働者というのは、直属の上司が身近にいないから、苦情すらいうことが難しい。正社員がいやがる仕事をどんどん押し付けられる。労働者の連帯感すら奪う。分断し、敵対させる。収奪を優先させる資本主義を応援する政党が、人の命を大切にできるのだろうか。

 第六に、その人に投票したという観念のもとに行動したとしても、政党に裏切られる可能性が高い。例えば、がん対策で民主党に投票したとしよう。しかし、民主党の医療政策に含まれる「包括払い」制度は、もうからない治療をどんどん切り捨てるように医療機関を向けさせる制度であり、そのためにアメリカでは麻酔の切れないうちに患者が退院させられてしまうといったような、恐ろしい問題を引き起こしている制度なのだ。その人がいい主張をしていても、政党側が悪い政策を選択していると、結果としては、命を大切にしない方向へゆく。だから、政党選択が重要なのだ。良い人がいるからと民主党への投票行動を促すかのような記事を書いたコラムニストは、木を見て森を見ない。そういう記事を書いたことによって、読者を誤った方向に導くことを痛感していない。
 
 以上、民主党にのべたことは、旧自民党田中派という性格から、すべて自民党、公明党の安倍政権にもあてはまることを、つけくわえておく。安倍政権の終わりは、民主党のダメさ加減によっても加速するだろう。

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2007/07/13

安倍政権の終わり その7

 例によって、またもや安倍首相の演説を聞く羽目になってしまった。あー、いやだいやだ。くだらん、つまらん。人生を無駄にした気がする。靖国神社遊就館を見に行ったときにも感じたこの感覚。気持ち悪さ。時間を返せ。お金を返せ。人間をかえせ。うーむ。怒りのマグマが煮えたぎっている。

 安倍首相の演説は、ワンパターンで、実績と称するものをズラズラと並べ立てて、年金ではおわびをしつつ、社会保険庁は何をやっていたのかと逆ギレして責任転嫁。国会では「消えた年金」を野党から追及されても、最初は大したことがないと安倍首相は思っていたではないか。同罪だ。つまらんウソをつくな。

 赤城農水相の事務所費問題では、800円で大臣を辞任させるのかとか、金額の多寡のせいにして、な~んにもわかっていない。光水熱費800円というのは、フツーはありえない。またペットボトルの水でも買ったのかいな。

 しかし、愚かな愚かな「人格化された資本」の演説に、それなりに人が集まるから、自民党というのは動員力の政党ですな。空疎な演説をありがたがって聞いたりするのは、やはり狂っているといわざるをえない。自民党支持者には、悪政を支えてきた責任がある。責任政党というなら、責任をとってもらおうではないか。定率減税の廃止による増税分は、自民党・公明党支持者が「おわび」としてすべて負担してほしい。責任、責任というが、誰に対して責任を負っているのか。肝心のところが、まったく不透明であいまいではないか。はは~ん、またアメリカに対して責任を感じているのか。卑屈やのう。消費税増税も国民に問うことができないなんて、ただの無責任政党にしか見えないゾー。おーっ。

 というわけで、安倍首相の演説を聞いて怒り狂っているのであります。すでに狂牛病で狂っているのかもしれない。アメリカ牛をどんどん食うて人体実験しているものでなあ。狂牛病で死んだら、責任とってもらうでえ。

 年間の自殺者が3万人いる日本。1日換算にすると82人。3万人を超えているから、90人近い数字になる。ラジオでワイドショーを聞いていたら、やくみつるさんだろうか、そんなことをのべていた。この数字のすさまじさをたとえるなら、新聞に毎日80人から90人の死亡記事が毎日出ているイメージを思い浮かべるとよい。さらに、1万人近い交通事故死者を加えると、1日あたり108人~109人とすさまじい数になる。108という煩悩の数字は、除夜の鐘だけではないのだ。パンドラの箱の中身だけではないのだ。安倍首相は、あれこれと数字を並べ立てて、田中角栄の演説のようになってきている。まあ、せいぜい広告会社のアドヴァイスに従っているのでしょう。演説で数字を引用すると、本当らしく聞こえるからね。むしろ、数字を引用するなら、年間の自殺者の数を引用したらどうか。日々是反省という安倍首相が、これでも反省しないのなら、「てめえら、人間じゃねえー」。時代劇「破れ傘刀舟悪人狩り」の決め台詞。あ~懐かしい。

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2007/07/09

安倍政権の終わり その6

 安倍首相の消費税増税発言の次は、赤城農水相の実態のない事務所経費か。税金を浮かせるために、あの手この手なのだろう。おそらく、赤城農水相の事務所経費問題は、報道するタイミングを狙っていたのですな。おみごと。安倍首相の消費税増税発言は、強気の発言で人気挽回の作戦が完全に裏目に出た証拠だ。国民の懐の痛みがわからない男だ。「成長を実感」どころか「増税を実感」ではないか。

 赤城農水相の両親は、前言を撤回した、というか、前言を覆い隠すかのような作戦にでた。赤城農水相も今宵限りかといわれていたのに、家族や後援会を言いくるめることで乗りきる作戦に出たようだ。わかりやすい。税金をごまかすかのような露骨な行為をする人物が、国務大臣を務めていることが許されるのか。あれでごまかせる、乗り切れると考えていること自体が、有権者を愚民と考えている証拠なのだ。もっと国民は怒らないとあかん。自民党支持者の人も、エエ加減に気づくはずなんだが(ここで気づかないと恥ずかしいですよ)。駅前で一人さびしくヤンキー先生のビラを巻いている女性がいた。今からでも遅くないから、あんな人物を応援するのはやめたらどうか。ヤンキー先生ではなくて、ただのヤンキーにしか見えない写真。うーん、写真って正直。

 というわけで、ほんとうに安倍政権の終わりにどんどん近づいているのだ。まだまだ出てくる予感。

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2007/07/05

安倍政権の終わり その5

 Q魔ではなくて久間防衛相が辞任した翌朝の安倍首相の表情は、いままでになく正直なものだった。すなわち、憔悴した顔、よく眠れなかった顔、鬚の濃い顔だった。忙しい夫婦ならピンとくるはずだ。働けど働けどわが生活楽にならざりの労働者にとって、見なれた顔のパターンといってもいい。あ~あ、顔って、ほんとうに正直(自戒をこめて)。

 いずれにしても、自民党三役も含めていつ交代してもおかしくない布陣の安倍政権。公明党が威張るほどのことはないのではないか。そんなに批判したいのなら、自民党との連立を解消すればいい。朝まで生テレビでも、高木陽介は、ずいぶん安倍を批判するニュアンスの発言をしていた。そうしないと、公明党・創価学会「支持者」に説明がつかないのだろう(これは推測)。公明党は、愛知県と埼玉県に幹部を投入しているそうだ。危ない選挙区というのは、実にピタリとあてる政党である(なんせ、学会信者という名簿があるからね)。他党にたいして名簿がどうのこうのといちゃもんつけられる立場なのだろうか。船が沈む前に早く逃げ出したらどうだろうか。

 小池百合子第二代防衛相も、「オンリーワン」をめざすというが、アメリカ帝国主義の代理人を務める防衛相が、「オンリーワン」のはずがないだろう。一説によると、Q魔が辞めるはめになったのも、アメリカの不興を買ったからだというウワサもある。Q魔の暴言をニュースにするタイミングをねらっていたのだろうか。不思議なのは、今回の原爆投下「しょうがない」発言にたいするマスメディアの敏感さである。いつもは、中途半端な追及で終わるのに、なぜか違った。安倍政権が弱体化していることの証左であるとともに、二大政党応援新聞のデスクたちも、「ゆけゆけ」とゴーサインを出したということなのだ。魚住昭『官僚とメディア』を読むと、まあ、それは、それは、えげつないデスクの記事原稿握り潰しが明らかにされていることか。腕利きジャーナリストにして、これほど、スクープを握り潰されたら、「絶望」と書いた紙を便所にでも張らなければならないのではないか(これは便所という気がぬける場所すら居づらくなるという冗談。わかりにくいね)。

 安倍が勝とうが、小沢が勝とうが、何も、な~んにも生活は変わりはしない。ただ、だんだんと悪くなっていくだけ。しかも戦争体制へと近づいてゆく。二大政党とは、そういうもの。アメリカを見ればわかるではないか。財界は、自民が勝っても民主が勝っても痛くも痒くもないだろう。財界は、ほんとうにいやな相手を知っている。財界に嫌われる党が、国民のための党だ。21世紀臨調なんて、くそくらえ。

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2007/07/03

安倍政権の終わり その4

 シャラポワ、シャラポワなんて、いっている場合ではないのである。キューマである。Q魔か? 窮馬? まあ、どうでもいいことではなくて、久間章生防衛相の原爆投下「しょうがない」発言には、長崎で講演していた作家の大江健三郎もすばやく反応した。「消えた年金」問題から国民の目をそらす謀略ではないかという声も一部にはあるが、そうではなかろう。この発言がでてくる背景には根深い日米同盟の卑屈な従属ぶりが影を落としているのである。しかも長崎選出の国会議員の口からこういう発言がでてくるところに、自民党のトチ狂いようが表現されているのである。

 先制的に核兵器を使う準備がありますよというアメリカの核戦略、そのもとでの日本。在日米軍基地には、当然のように核兵器が持ちこまれている(疑うものは、不破哲三著『日米核密約』を見よ)。非核三原則を見直せというのは、現状にあわせろということなのである。
 そして、Q魔ならぬ久間発言は、アメリカの視点から、あるいは、自民党支持者の視点(とくにタカ派)から、それをそのまま表現したものなのである。右翼総合雑誌を見てごらん。核武装論なんて、やいのやいのとうるさいこと、うるさいこと。京都大学の教員までが核武装論の講釈を垂れる。

 Q魔だけがのべていることではない。Q魔は、アメリカの核戦略に洗脳された有象無象の代表として発言しているのである。アメリカの核の傘があるから、日本の平和が守られているなんて、よくもそんなことがいえるなあ。逆に危なくて仕方がないではないか。狂った世界の住人たちよ、核が日本の平和を守っているのではない。憲法九条に示される、もう戦争はいやだの世論が、平和をつくっているのである。

 くどいようだが、アメリカの核戦略に洗脳された連中が自民党政権を支えているのである。安倍首相が、Q魔をかばえば、かばうほど、みずからも原爆投下「しょうがない」発言を容認していることになる。しかも、そのことに気づかないほど、安倍はボケているのである。ここに安倍政権の終わりが「象徴」的に、集中的に示されている。

 安倍政権のひどさは、国民世論に敏感ではないところだ。ここが小泉政権と違うところで、小泉は少なくとも世論を読むことはしていた。例えば、北朝鮮の拉致問題。あるいは、ハンセン病の元患者、回復者たちへの謝罪など。安倍は、取り巻き連中にチヤホヤされて、国民世論を操作できるとふんで、驕り、昂ぶっているのではないか。世論を動かすのは、それこそ、実に粘り強い働きかけ(ビラ一枚もその一つだが)を必要とする。宮崎の東国原現象も、世論を読むところからスタートしているはずだ。「どげんかせんといかん」という言葉ににじみ出たものが、県民をとらえたのだ。もちろん、世論を読むばかりでなく、働きかけがなければならないのだが。

 Q魔が少なくとも大臣を辞めない限りは、いくら物忘れが激しい人間でも、気がつくというものだ。

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2007/07/01

シャラポワ

 シャラポワ、太ったか。

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