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2007/05/30

安倍政権の終わり その2

 おごれる者久しからず、とは、ほんとうに名言だ。おごりそのものによって、どんどん崩壊へ突き進む。ナントカ還元水大臣が、辞任しなかったのも、靖国派政権のおごりだが、辞任していれば命は救えたものを。

 数の力でなんでもできると思ったら大間違いである。そもそも国会内の勢力は、ほんとうに国民の意見を反映しているとはいえない。これが小選挙区制のマジックである。ほんとうにだまされている。だまされやすい。いま議席が少ないからと、しょんぼりしている場合ではないのである。

 虚の力で、虚の政治を進めれば、崩壊も早い。そもそも実態がないのだから。林道の疑惑は、林道だけに、そうとう根が深そうだが、税金の無駄遣いをあれだけ堂々とやられると、何か国道の建設工事かと勘違いするくらい、立派な林道をつくっている。北海道なんか、林道工事にどれだけ税金が投入されているか。ぼろぼろとがけ崩れなんかおこすから、林道工事というのは、とてもオイシイ工事だ。道路をつくっている端から、工事が増える。山の自然を破壊し、税金を横取りし、ふところを肥やしてきた政治。その応援をしているのが自民党だ。

 それにしても、なぜ、こう簡単に死を選ぶのか。選ばせられているような気がしてならない。疑問はぬぐえない。

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2007/05/29

安倍政権の終わり

 NHKニュースで科学文化部の記者が、松岡農水相の自殺について、慶応大学病院から中継していた。不思議に思っていたが、ZARDの坂井泉水さん死去の現場も慶応大学病院だったらしい。取材のついでということだったのだろうか。わからないことが多い。

 人間の死のあっけなさについて、いろいろなことを教えてくれるが、坂井泉水さんは、子宮がんで、とてもつらい思いをしていたろうと思う。だれかサポートしてくれる人はいなかったのだろうか。この子宮がん検診というものを、若い世代から遠ざけることをしているのが自民党なのだ。2004年以前のニュースだったと思うが、政府は、若い世代の子宮がんの検診をやらんでもええやないのという改悪をした。早く発見すれば、肺への転移もなかったのではないか。ひどい政治が、命を短く、未来を短くする。他人事ではない。少なくとも、子宮がん検診は、早期診断へ復活すべきだろう。

 自殺の多くは、過労自殺を除いて、抗議の要素が強い。過労自殺は、企業や社会に殺されることである。だれかが気づいて防ぐチャンスはあったはずだ。「だれかがやってくれるだろう」というなまけ心は、意外と、政治腐敗の根源にあるような気がする。自民党という政党が、死ね死ね政党(九条の改悪を狙うことは、国民に死ねということに等しい)であることは、はっきりしているが、大臣の命すら救えないのであれば、もはや政権を担う資格はない。自分たちの命も守れないのに、どうして国民の命を守れるのだろう。もう、はっきりと悟るべきではないのか。おとなしい日本人よ! 派遣労働とか、請負労働とか、めちゃくちゃな働かせ方を容認している政府の狂いようを。自らの利権、利益を追求するしか能のない政党の堕落ぶりを。安倍首相は、競馬で馬券を当てたことを素直に喜ぶような、自らの利益追求を地でいく。

 安倍政権を終わらせる第一は、七月の参院選であろう。ここで自民党と公明党に徹底的な審判を下すほかない。大体、給与明細を見たら、わかるではないか。増税、増税、増税と、カネをとることばかりやって、保険料も上がるは、エタノールとやらで物価が上がるのを平気で容認するなど、何一つ良いことはしていないではないか。こういう動きの背景に、賢しらぶった財界人がえらそうにしているかと思うと、腹が立って仕方がない。そんなにモノの値段がすぐに上がるだろうか。世の中、インフレにむかっているぞー。あぶないぞー。いよいよ戦争準備が始まったぞー、といいたい。政党助成金もらってテレビCMをうつ民主党もダメだ。社民党も、国民新党もダメ。とにかく、国民の税金である政党助成金をもらって、えらそうにする奴らは信用できない。政党助成金をもらわない共産党だけにしか期待できない。

 総選挙でも、自民、公明、もちろん民主党にも審判を下すべきだ。

 支持もしていない政党に税金使われるのは、腹がたつなあ。もう、この政党助成金一つだけで、選ぶ政党は決まったようなものなんだが。まあ、そんなに理解もされないし、そんなに単純な人もいないのだ。税金の無駄遣いに敏感な人も、政党助成金のことを知らないようだ。知らないということは、それだけでも、自民党、公明党、民主党などを助けてしまうのだなあ。無知だと、なんとか還元水にだまされてしまう。

 まあ、国家的な年金詐欺をするような(つまり、将来の年金の受け取り額が減るようなことをした自民、公明)奴らには、怒りをどんどんぶつけても、ええんとちゃうかな。日本の政治は、そうとうひどいところへきてるで。

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2007/05/27

演劇集団円「実験 ヒポクラテスに叛いた男」

(54)演劇集団円「実験 ヒポクラテスに叛いた男」ステージ円
(55)シアターX「フェイドラの恋」

 深夜、運行が不規則になっている終電車で駅へと辿りつき、明日、子どもらに食べさせる食材を買うために、24時間営業のスーパーへ行くと、それぞれの思惑を秘めた客たちが結構な人数でいることに気づく。液体系の食材を買う人が多いように思う。
 同じような客たちは、急いでも仕方がないというのか、エスカレーターの左側で立ち止まってもいる。そそくさと、右側(なぜか関東のエスカレーターは右側が急ぎ歩き用で、なんらかの説明がなされているように思うが…。関西は逆の左側。右利き文化からいくと、右が立ち止まる方が自然なので、やはり関西型エスカレーター作法に軍配をあげたくなる)を降りてゆくが、同調する人はいない。
 レジを済ませると、二人の40代らしき女性が、買い物を終えてレジ袋に詰めている姿が目に止まった。後ろ姿の女性が、「私、来週から働くの」と弾んだ声で、友らしき女性に話しかけている。「就職祝いをしなきゃね」と、友らしき女性が笑みを返している。仲は良さそうだが、そんなにふだん会って話している人とも思えない気がした。

 丑三つどきに近いスーパーでの会話である。それで、思い出した。ナチズムが敗北した後のドイツでは、戦争犯罪を裁くために、ごくふつうの民衆がひどく生きづらい思いをした時代を経験している。ふだんの日常会話でも、ナチズムを反省する本音の語り合いは難しかった時期があったようだ。それでも、あるドイツ人作家によると、深夜の工場などで、ナチズムを体験した人々の率直な話を聞くことがあったという。真夜中というのは、なぜか、疲労感も味方にして、人間に人間らしい会話をさせる。正直にさせる。
 しかし、なぜ、あの女性が、なぜ来週から働くことになるのか。その理由は、わからない。働く理由が経済に関係にしていることは、想像できる。経済関係は、眠たい、朦朧とした頭にも迫ってくる。それは想像で歪めようと、さしあたりは、動かしがたい現実としてある。

 実際にあった、動かしがたい出来事をなかったことにしようとする人々が、今、権力を握っている。とりわけ戦争犯罪という動かしがたい出来事。彼らがウソですと言い張って、それが通るだろうか。731部隊で中国人を人体実験の材料にした者たちが、戦後も旧支配勢力とアメリカの取引のなかで、民衆からの裁きを受けず、のうのうと生き延びたことを題材にした演劇集団円の「実験」という芝居のタイトルには、動かしがたい出来事としてある、丸太同然の扱いをうけた中国人への人体実験がこめられていると同時に、新しく橋爪功をリーダーとする円の実験的芝居という意味もこめられているようでもある。

 夢空間で語るなかに、真実の歴史をこめる。これこそ、深夜の語りというべきものだろう。御伽噺のようでありながら、御伽噺でない。731部隊の犯罪に加担した男が見る夢のなかに、真相が現れる。
 ただ、惜しまれることに、これだけシリアスな芝居でありながら、雑誌編集長に駄洒落、それもつまらない駄洒落をいわせる。往々にして、雑誌編集長は、駄洒落を吐くイメージがあり、リアルのようでもあるのだが、芝居の流れからいって不必要ともいえる。重いテーマを扱い、芝居にしているのだから、厳粛さすらほしいところなのだ。ジャーナリストも夢のなかで問題の人物を追及する存在でしかない。これはツライ。むしろ、この芝居には、真実を追求しない今のマスメディアへの批判も含まれているというべきだろう。

 一方、シアターXの「フェイドラの恋」は、ギリシャ神話のパイドラに取材したイギリスの劇作家の作である。これまた血みどろの悲劇、道ならぬ恋のとてつもない悲惨さ、おそらく現代の人類の悲劇を下敷きにしている深い芝居なのだ。フェイドラが愛する男は、夫がほかの女にうませた子ども、つまり義理の息子。この義理の息子が、まあ、ドラ息子を絵に描いたような誇張された、しようもない王子で、でも、ファストフードを食べたりして、妙にリアルなのだ。刺激を求めてウズウズして、ヘタをするとホイホイと戦争へいってしまいそうな頓珍漢さをだしている。現代日本でも他人事でない感じを醸し出している。妻フェイドラが自殺してしまったことに腹をたてた夫は、怒りすぎて、娘まで、気づかず殺してしまう。義理の息子もまた民衆に裁かれてゆく。悲劇の原型を描くことによって、現代の戦争の悲惨さも見えてきそうな芝居だった。

 民衆の裁きのある芝居と、民衆の裁きがない芝居。しかし、民衆の裁きがある芝居も、犯罪者に弁明の機会を与えない点で、救われない。サダム・フセインが、あっという間に死刑にされた経過を見るにつけ、刑法学者が、新聞に投稿するなり、抗議声明をあげるなり、なんらかのアクションをするのではないかと期待していた。目だった動きはあったのだろうか。刑法がなぜ誕生したのか。犯罪者に人権がないと言いきれるのだろうか。意外と社会に定着していない、難しい問題がある。弁護士という存在がなぜ誕生したのか。犯罪者を罰するためだけに法律があるのなら、裁判はいらないだろう。昨今の社会面ニュースに「いやな感じ」を抱く。人権を尊重しない社会が、裁判を歪める。裁判員が正しい人間だなんて、どうしていえるのだろう。

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2007/05/19

ナイロン100℃「犬は鎖につなぐべからず~岸田國士一幕劇コレクション」

(52)前進座「毛抜」「新門辰五郎」国立劇場大劇場
(53)ナイロン100℃「犬は鎖につなぐべからず~岸田國士一幕劇コレクション」青山円形劇場

 今月は、ほんとうにおもしろそうな芝居が多い。5月の演劇界は、激戦である。嵐圭史、中村梅雀らによる前進座歌舞伎のみごとさは、演劇とは何かを考えるうえで、いろいろと重要な要素を含んでいる。いま=ここ主義を抉り出した加藤周一「日本文化における時間と空間」の問題にも通じるものがある。非常に大きな問題なので、別の機会に改めて考えるとして、日本の歴史を再検討する場合、いわゆる「明治維新」以降だけですむ話ではない。歌舞伎に反映された祝祭的ともいえる民衆文化のなかには、いろいろな願いが託されている。古代、中世など、「日本」の歴史には、まだまだ掘りあてるべき鉱脈が隠されている。もちろん、否定的側面と肯定的側面も含まれている。

 しかし、日本の歴史のなかで、端的にいえば、女性の地位というものの変遷に、歴史の「発展」「変化」が如実に刻印されているのを認めないわけにはいかない。女性史は、学校で教えるべき歴史の最たるものではないか。不十分な歴史教育の影響を、みずからの中に発見する。また、歴史教育の影響だけではないだろう。

 歴史に発展がないとのたまう御仁は、おそらく、人間が解放されてゆくことに歴史のモメントをみていないのだと思う。解放と一口にいっても、その実現過程はさまざまである。何を解放するのか。何が解放されるべきものなのか。

 「毛抜」では、姫が大事にされている。逆に「新門辰五郎」では、新門を慕う女性は、いわゆる「出すぎたマネ」ができない。叱り飛ばされもする。江戸中期から末期にかけて、女性の地位が下降したかのようである。それは、見掛け上のことで、姫が大切にされるのは、お世継ぎをつくるためであり、そこに姫の人格への働きかけはない。江戸末期には、芝居上も働く女性の姿が、多くみられるようになるのである。働く女性の増加というところに注目すれば、変化は顕著である。歌舞伎を見ることによって、歴史の変化の手応えを感じ取ることができる。

 ただし、戦時下での労働は、国家への「滅私奉公」である。なによりも、人殺しの集大成ともいえる戦争遂行目的のために「労働」することは、犯罪であって、労働とはいえない。しかし、戦争は、犯罪をあいまいにする。

 「公」の面で、戦争犯罪が常にあいまいにされるのは、権力者の側が常に、みずからの利益追求のために都合のよい基準をつくるからである。そして、権力は、「公」のフィクショナルな体制へ国民を取りこみ、共犯者にしてしまう。体制へ抗議せず沈黙する者、さらには抗議する者すら共犯者にしてしまう。たとえば、選挙で勝った・負けたという短絡的見方。低投票率のなかでの選挙は、その有効性が常に問われるのであり、被選挙権のハードルの高さ(供託金)も、階級社会を示している。

 支配層は、権力を握っていることによって、宣伝・煽動で常に物量的に有利な位置を確保している。選挙以外も日常的に、反対勢力への弾圧を企てて、殲滅に努めている。たたかう前からあきらめさせる作戦も巧みだ。支持が多い、人気があると錯覚させて、もともと流動的な虚構の支持を、磐石であるかのように装う。

 その結果、対抗する人々のなかに、話し合う余裕を奪いさり、権力をとりさえすればいい、何がなんでも当選をかちとれさえすればいいという短絡的論者を生み出し、候補者の欠点にも目をつぶるようになってしまう。権力をとりさえすればいいという民主党がその一例だが、権力をとるために俺の言うことを聞け主義者のはびこる余地を拡大してしまう。俺の言うことを聞け主義者は、共産党が候補者をたてたから、都知事選で、石原慎太郎に浅野某が負けたのだという不思議な意見を開陳する。俺の言うことを聞け主義者は、自分たちの認識が甘かったことを反省せず、他者を鎖につなぎとめたがり、他に責任転嫁する。俺の言うことを聞け主義者は、みずからが権力にとりこまれ、共犯者に仕立て上げられていることに気づいていない。

 第二次世界大戦の戦中・戦後、戦争の共犯者になってしまった人は多い。岸田國士もまた、大政翼賛会文化部長として侵略戦争の片棒をかついだ。しかし、その戯曲は、みごとに日本人の弱点を抉り出している。一体、これはどうしたことか。そして、ケラリーノ・サンドロヴィッチによって選択された岸田の芝居には、日本的な、世間体だけを気にする、みごとに個々バラバラな人間たちが登場する。お互いを理解しあえず、すれ違い、現実と向きあわない。好き勝手である。話がズレてゆく。意外なことに鎖につながなかった犬が、近所迷惑をしでかすことによって、近所の人々をつなげていく。兄弟、夫婦、姉妹、金持ちと貧乏人、何らかの鎖につながれた人々が、解放されるためには、まず、目には見えない鎖を断ち切ることから始めなければならない。鎖につなごうとする人間への警戒が必要だ。人間もまた、鎖につなぐべからず、なのだ。岸田國士が大政翼賛会に参加した過程は、研究に値する。

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2007/05/11

俳優座「リビエールの夏の祭り」

(48)文学座「ぬけがら」紀伊国屋サザンシアター
(49)アトリエ・ダンカン「血の婚礼」東京グローブ座
(50)東京演劇集団風「明日は天気」レパートリーシアターKAZE
(51)俳優座「リビエールの夏の祭り」俳優座劇場

 ようやく今年の観劇50本を超えた。ほんとうは関西芸術座「大阪城の虎」も見にいきたいのだが、時間がとれなかった。徹夜して仕事をしても、終わらない。突然死は近い。
 
 俳優座は、中野誠也が初演出にとりくんだ。ストーリーは、喫茶店リビエールを舞台に、戦争によって離別した夫婦の物語として展開し、記憶を失った男と、男の記憶を再生することに夢中になる女が、取り返せないものを取り返そうとするようにクライマックスにかけて盛りあがっていく。川口敦子と中野の2人で芝居をぐいぐいと引っ張っていく。戦争が夫婦をいかに残酷に引き裂いたかを、仮借なく正攻法に描く。

 中野は、みずからにも心憎い演出をほどこしている。記憶を失ったはずの「東田」が、実は記憶を取り戻していたのではないかと類推できる解釈の余地が残る演技をしているのである。それは肉体的な表現、身体表現による。中野の肩のラインに注目して芝居をみると、ラストで肩の線が微妙に上がるのである。これは何を意味しているか。脱力した浮浪者の演技から、かつての「東田」の肉体をとりもどすかのような演技をしているのである。セリフ上は、まったく記憶を失った男のままである。心の内面を肉体的に語る、身体的に語る技法が、芝居全体を揺るがす。勝手な解釈かもしれないが、もう一つのストーリーを読み取ると、「川」に象徴される人生の深みがましてくる。

 セリフのきわめて少ない場面でも、中野、川口は二言三言で演じきってしまう。セリフ過剰な演劇時代にあって、これは逆に冒険ともいえる。しかし、よいお客さんである。シーンと実に集中して芝居を見ていた。

 注文を一つ。浮浪者の「東田」は、卵のような臭いを放っている設定になっているのだから、周囲の人間にそのように臭いをかぐそぶりみたいな演出はあってもよかったのではないかと思う。これは瑣末なことだ。話の筋とは関係ない。演出家の栗山民也ならば、嗅覚に訴える演出もするだろう。脇役のなかには一面的な解釈による演技もみられた。東京下町の雰囲気を醸し出すように脇役陣の奮起も求めたい。

 ぬけがら、血の婚礼、明日は天気については後日。
 5月は、前進座、ナイロン100℃、演劇集団円など、おもしろそうな芝居が目白押しである。どれもオススメなので、どーぞ。

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2007/05/04

こまつ座「紙屋町さくらホテル」

(47)こまつ座「紙屋町さくらホテル」俳優座劇場

 連休である。あんまり連休じゃないけれど、連休である。2日は、こまつ座である。井上ひさし作「紙屋町さくらホテル」。何回上演されているのかわからないが、井上ひさしの「私は誰でしょう」に至る大傑作山脈のなかでも、ある意味で、現時点の最高峰ともいえる芝居ではなかろうか。

 先に見た同僚が、嗚咽している人を確認したというほど。前回の公演も見たそうで、そのときと比較しても格段に演出、俳優のアンサンブルが冴え渡っているとのこと。本当にそうだった。こまつ座の芝居を見ていない人は、とても人生を損している。絶対に見るべきだ。3度の食事を抜いても、見るべきだ(しかし、空腹で芝居を見るとお腹が鳴りまくる。脳を刺激されるからだろうか)。仕事を休んでも見るべきだ。恋人とのデートをキャンセルしても見るべきだ(一緒にご覧になればいいのだろうが、見たら、笑いすぎて、泣きすぎるからね)。親を連れてきて見るべきだ。泣きすぎて、目が腫れて、2日も腫れが引かない。俳優座劇場は、すぐに地下鉄の駅に逃げ込むことができるのがアリガタイ。涙、涙、涙。情けない。でも、ものもらい気味だった目がすっきりした。ご利益もある。やられた。どうしよう。井上戯曲の魅力が充満している。

 となりの席に、ピース・リーディングで見かけた素敵な俳優さんが座っていたので、少し緊張した。が、プファファと笑いころげ、涙し、とても感動している様子だった。パンフレットに、大江健三郎さんの巧みな井上戯曲解説・推理が再掲されているので、休憩時間は、それを読み耽る。出演俳優の話に、それぞれ1ページ分が割り振られていて、さすが、こまつ座、井上ひさしと感心する。

 俳優をほめよう。木場勝己。ほめても、ほめても、ほめたりない。客席に向かって、重要な、演劇上、とても重要なセリフを話すとき、素の表情をわざとつくって語りかけもする。瀧澤脩や杉村春子と一緒に築地小劇場に出ていた丸山定夫を演じる。役を自分のものにするとは、いかなることか。出すぎた感じがしない。この人の出演する芝居は、まず見た方がいい。そう思わせる。

 辻萬長。もう長谷川清の人格を写し取ったよう。声の張り、演技の強弱。こまつ座がマネジメントする唯一の俳優さんという名誉も担っている。映画「犬神家の一族」(初作)では、加藤武とともに捜査にあたる警察官の役だった。長谷川清は、天皇の名代というとてつもない人物。難しい役どころを、これまた絶品の演技。丸山定夫役もしていたというから、達人の役者なのだろう。

 元宝塚という共通性を十二分に生かしきる森奈みはる。元宝塚で、丸山定夫から新劇を学ぼうとしている園井恵子役。もう凄すぎる。ブラボー、ほー。目立たないように登場し、どんどん存在感を増していく。

 中川安奈。華があるねえ。久しぶりにこの人の舞台を見ることができるというのは…。うっ、批評の言葉を忘れてしまう。河野洋一郎、久保酎吉、大原康裕も抜群。一体全体、やはり、演出の鵜山仁のすごさにもつながってくるのだ。♪す~みれ~のはあ~なあ~さあ~くう~ころお~ ルンルンルンルン

 5月は4、5日(千秋楽)と昼1時からの公演があと2回あるので、開場1時間前から当日券を買って、さんざん涙しよう。もちろん前売券は完売であるからして、おっほん。

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