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2007/03/31

野村萬斎「狂言ござる乃座」

(38)野村萬斎「狂言ござる乃座」国立能楽堂

 野村万作、野村萬斎、野村裕基の三世代が登場する狂言である。一番幸せそうなのは、万作である。孫を思う気持ちが、やはりどことなく伝わってくる。そこが楽しい。微妙に声に表れる。

 狂った世界で、狂言を演じるということは、きわめて「まとも」なことになろうか。狂言は、実はリアルな世界を示す。狂った人間が、狂ったことを言うのを「狂言」とはいわない。単純に異常なだけである。

 自分の飼っていた牛がどこかへいき、他人が所有する牛になっていたとき、その牛を取り戻すにはどうすれば良いか。何かの証拠が必要になる。現代ならば、写真とか、なんらかの証明書のようなものを提示して、返してもらえるかもしれない。ところが、日本の中世で、どのようにして、牛の所有権を主張するかは、きわめてシリアスなドラマの様相を呈する。しかし、狂言は、笑いのうちに、その方法を示す。例えば、牛の名前を呼べば、その牛がこたえて鳴くといったように。ここにはユーモアがある。話しかけて、常に牛が鳴いたりするとは保証できないので、牛が鳴くのは、偶然である。その偶然(しかし実は隠された必然)が出現するとき、ドラマが生まれるわけだ。命の跳躍といいかえてもいいだろう。

 実際、狂言には、たんなる滑稽話だけではなくて、当時の話題についての情報がもりこまれていたりする。狂言「横座」には、牛の所有権をめぐる解決方法と同時に、支配者についての情報を伝達する言葉も入っている。現代の演劇も参考にすべき実に豊かな世界がある。民衆の世界に接近すればするほど、狂言的なものが明確なかたちをとって姿を現すといった方がよいだろうか。研究の余地がかなりあるが、どうも直観的に、そう思う。

 たとえば、払いつづけた年金が、監督官庁のミスで受給資格があるのにもらえなかったとする。自分が受け取るはずの年金がもらえない事態があって、それが「時効」で、うやむやにされたらどうなるか。官僚たちは、牛のように鳴くことはない。泣くのは国民である。現代日本では、もらえたはずの年金がもらえない状況がある。個人のミスならいざしらず、国家のミスになぜ「時効」があるのか。なぜ自分が払いつづけた年金が、自分のものにならないのか。ここには、狂言らしいユーモアのかけらすらない。
 また、個人情報保護法なるもののウソさ加減。大企業は、平然と社員の犯罪とかなんとかいって大量の個人情報を流出させておいて、うすっぺらな紙一枚でおわびするだけである。心のこもらないおじぎだけである。社長のクビも飛ばない。日本の中世の狂言がまともに見えてくるのも故なしとしない。

 狂言は、まともな芝居である。だから、演技にも、大胆かつ細心に注意が必要になってくるのではあるまいか。萬斎演じる太郎冠者が、酒を飲めば歌えるといって酒をごちそうになる場面(もちろん、酒を飲むふりをする場面)があって、「ぷはー」と酒くさい息を吐きだす仕草をする。あの場面は、酒を飲むにつれて、微妙に変える必要があるのではないだろうか。狂言は、大仰な身体表現が決まっているとはいえ、繰り返しのうちにも、何かを付け加えることが必要なのではないだろうか。素人の妄言ではあるが、酒を飲む場面にやや精彩を欠いていたと思う。見る側の眼がショボショボしていたのかもしれないが。

 注文をつけたいのは、それだけで、後は、この芸達者な、挑戦する意欲に満ちた稀代の狂言師の舞台を見つづけていたい思いにかられる。野村萬斎、万歳!

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2007/03/28

tpt「エンジェルス・イン・アメリカ」

(37)tpt「エンジェルス・イン・アメリカ」ベニサン・ピット

 第1部ミレニアム、第2部ペレストロイカあわせて7時間という大作である。通し公演というありがたい(珍しい)機会なので、思いきって見た。アメリカ社会のひりひりする皮膚感覚をとらえた大力作だった。

 ホモ、ゲイに目覚める国家官僚の若者を軸に、民主党も共和党も嫌いというホモの社会主義者が絡む。エイズで死にかけている権力者と若者の対比もある。反共主義を痛烈に皮肉っている風情もある。しかも、こういう芝居を若手俳優たちが、汗飛び散り、唾飛散する大熱演をやってのけているのだから、たまらない。平日の昼間などは、お客の入りが芳しくないのが、とてもとてももったいない。ほんとうに役者たちは、楽しそうに演じている。楽しそうに。

 ベニサンの舞台空間を目いっぱい使って、本当に人間は救われるのかをいろんな角度から問うている。救いがあるのかと。解放される喜びを味わっているか、と。命の跳躍をなしえているか、と。

 ゴルバチョフのペレストロイカを評価するセリフがちょろっと出てくるのが玉に瑕だが、それはアメリカの社会主義者の一部を反映している。それは本筋ではなく、究極的には、命を見つめる芝居といってよいだろう。いまさら、空から天使がやってきても、それは、ある意味で滑稽な存在なのである。宗教への諷刺もある芝居といっていい。とにかく、この芝居を見ずして、演劇を語るなかれというほどのド迫力。「やってきたゴドー」も霞んでしまうほどだ。うなりますよ。

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2007/03/25

木山事務所「やってきたゴドー」

(34)オペラ「ミカド」東京芸術劇場中ホール
(35)劇団俳優座「地獄の神」俳優座劇場稽古場
(36)木山事務所「やってきたゴドー」俳優座劇場

 なんといっても木山事務所「やってきたゴドー」の初日(24日)を迎えたことが話題である(もちろん、選挙が一番の話題であることを忘れているわけではない)。とうとうやってきてしまったのだ、あのゴドーが。

 六本木を歩いていると、発明家の候補者カーがちょうどやってきて、ギャル(これも死語か)2人が、信号待ちで道路の真ん中に止まっていた候補者カーにわざわざ握手を求めに走っていた。カネをもらっているのかもしれない。近くで見ていた別の若い人も、なんで握手を求めるんだろうと疑問をのべていた。あざといパフォーマンスぽくて、なんかウソくさかった。まあ、彼女らは、テレビに出る人たちに御威光を感じる六本木ミーハー族なのか。

 俳優座「地獄の神」も、予想を超えた演出のある芝居で、なかなかの力作だった。小劇場形式なので、俳優座の俳優さんたちを間近に見ることができるのも、不思議な感覚。やはり、大きな舞台で芝居をしている俳優は、それに合致した芝居をする癖がついているような気がする。とはいえ、ブッシュ政権を批判する内容で、恐怖がじわじわとやってくる。老夫婦の妻が、この芝居では、唯一まともな人物として描かれる。最後に鐘を鳴らすのは、時代へのまさに警鐘だ。

 オペラ「ミカド」は、海外の作曲家による日本を誤解した英語のヘンテコリンなオペラを、さらに日本語でパロディーにして、ドタバタ喜劇調に演出した娯楽超大作。ティティプ(秩父)が物語の舞台なのだ。下層の娘ヤムヤムに恋する皇太子の恋愛を軸に構成され、法務大臣、なんでも大臣、ミカドが登場する。音楽はなかなか、良くて、一流のオペラ歌手たちが、ちょんまげのカツラをかぶって、女性たちは唐傘をもって歌い踊る。戦前なら「不敬罪」でえらいことになる内容。政治への諷刺もきいていて、抱腹絶倒の大傑作にしあがっている。とにかく必見。

 「やってきたゴドー」は、待つことの不条理さ加減、受付をすることの不条理さ加減、生きていることの不条理さ加減を宇宙的かつ象徴的に描く。「2人」とか、「ウラジーミル」とか、存在を証明するなどが、みごとに意味がすれ違い、誤解され、状況が変わっていく様子を計算した別役実脚本の冴えを味わえる芝居。いい役者をそろえて、いい脚本、いい演出。三拍子そろっている。日常の光景とは、まさに相手の言葉をどう受け取るかにかかっている。ある人がAといったからといって、それを額面どおりAだと受け取ることができるとは限らない。ある人への信用、思いこみが裏にあることがわかってくる。目の前に何かがあっても、それに気づかない場合すらある。たとえば、夫婦関係とは何だと問われたら、この芝居を見た後では、言葉のスリアワセの関係ではないかと思えるほどだ。言葉が指し示しているものと、事物のズレ、情報のズレが、きわめて曖昧な関係のうちにあることを鋭く提出する。神が死んだ時代に、ゴドーが現れた悲劇。いや喜劇か。人間存在の喜劇性を祝福する作品か。はたまた…。登場人物は、ホームレスばかり。時代もみごとに反映されている。もう一度みたい。

 

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2007/03/23

前進座「生くべくんば 死すべくんば」

(31)国立能楽堂のチョーギンと狂言
(32)前進座「生くべくんば 死すべくんば 弁護士・布施辰治」前進座劇場
(33)劇団ひまわり「星の王子さま」シアター代官山

 国立能楽堂での狂言、前進座の芝居、劇団ひまわりのミュージカルと我ながらぜいたくすぎて申し訳ない。都知事選の火ぶた切られたので、詳述はやめときます。

 チョーギンとは、沖縄の狂言のこと。実に楽しい演目であった。その後の野村万作、萬斎親子の「鬚櫓」も絶品だった。かの有名な「くっさめ」止めの狂言で、ものすごく得した気分である。萬斎の声色は最高である。よく狂言回しというが、ほんとうに声色一つで、魅了されてしまう。とにかく、彼と同時代に生きていることを幸せに感じていい。時間があれば、一定期間、野村萬斎の舞台だけを追い掛けてみたい。

 前進座の芝居も、登場人物がだんだんと年をとっていく様子も描く実に丁寧な芝居で、細かい演技ができるのは、さすが前進座である。弁護士・布施辰治は、事務所にくるものなら、誰でも救済の対象にしたという傑物で、朝鮮民族を差別しなかった。戦前の日本人でここまで堂々と国際交流できた人がいたことは、どう考えたらよいのだろうか。興味深いことだ。機会を改めて考えたい。布施は共産党への弾圧事件も弁護をかってでた。共産党員ではなかったのに…。こういう人物を芝居にできるのは、前進座しかないのではあるまいか。実は、ものすごく難しいことだと思う。

 劇団ひまわりの「星の王子さま」は、新訳本によるかなり忠実な再現で、新井海人という天才子役が王子を演じている。早口なところが弱点だが、歌はウマイ。ほんとうに小学3年生なのだろうか。すごすぎる。キツネ役の松村(●●、後で名前を調べておきます)が、生き生きしている。飛行士も元少年隊の東に似ていて、いい味だしてます。キツネは「大切なことは目には見えない」という重要なセリフを王子にいう役目なので、このミュージカルでは、キツネの役割が決定的といってよいだろう。主題が見えてくるところで、星の王子さまの話は、すぐれて詩的、文学的、宇宙的になる。ポエジーが出てくる。名作は、確かな●●よろしく、確かな感動を約束してくれる。

 都知事選の選択も、♪大切なことは目には見えないの法則で考えれば、おのずから選ぶことができるような気がする。それぞれの候補が、何に(たとえば演説の中身で)時間を割いているかをじっくり観察すればよい。見栄えにだまされてはいけないのだ。

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2007/03/22

流山児★事務所「THE RETURN(リターン)」

(30)流山児★事務所「THE RETURN(リターン)」Space早稲田

 レグ・クリッブ作の戯曲の日本初演なのだが、翻訳劇という隔絶感を抱かせない迫真の芝居だ。もう、これだけで称賛に値する。千葉哲也、大路恵美ら5人のいい役者がそろって、これまたスゴイセリフの数々。電車の中に刑務所から出てきた男が2人もいたら、確かに怖い。しかし、なぜ、彼らは犯罪者なのか。なぜ怖いと感じるのか。なんでもないようにみえる人間も、さまざまな困難、矛盾を抱えている。なぜ底辺で生活しなくてはならないのか。単に怖がっているだけでいい問題ではないのである。この芝居を見終わった後、電車に乗ると、ブレヒトのいう異化(ふだん何でもない光景が、まったく違った風景として見えてくる)を感じた。

 小劇場の密な空間で、同じ電車に乗っているような感覚にもなる。途中から大荷物を抱えて乗って来るおばちゃんの役も抜群にいい。他の4人を批評的にとらえる眼の役割を与えられつつ、このおばちゃん自身も、相当な悩み、矛盾を抱えているのである。5人それぞれが、とんでもない人物なのだが、そのとんでもなさは、日常的なとんでもなさであるところが、この物語のすぐれたところだと思う。物語の背景にあるものを感じさせるセリフは、いい戯曲、芝居の前提をなしている気がする。

 くどいようだが、小劇場という空間で演じることができる芝居は、観客の想像力に最大限に依拠するし、観客に働きかけることを最大限に意図している。目の前で展開されていることに、あなたは、他人顔でいられますかという芝居なのである。しかし、バブルのころに小劇場ブームがあったというのが逆説的である。いや、バブルだから小劇場でやっていけたのか。しつこいようだが、小劇場というのは、実にぜいたくな空間、時間なのである。5人の役者に対して60人の観客なのだから。

 時間や空間を小さく切り取ることによって、見えてくるものがある。ある日常を拡大することによって見えてくるものがある。眼を背けたくなるようなことでも、考えなくてはならないことがある。

 大路恵美が演じるリサは、恐ろしい男たちに絡まれる役である。リサもまた自分が何をしたいのかの意思を確認できないでいる存在である。劇作家も乗車してくるが、彼もまた何を芝居にすべきかをつかみそこね悩んでいる人間である。この芝居の題名、リターンは何を意味するのか。双六でいえば、振りだしに戻るということになろうが、われわれもまた下車したくなるような電車(たとえば、再び戦争へと突き進む日本という国)に乗っている。

 問題を解決するためには、下車するだけではダメなのだ。少なくとも、問題の始まりへ遡ればいい。振りだしに戻ればいい、リターンすればよいのである。なぜ、こうなったのか、と問いかけてみよう。しかし、欲望という名前の電車に乗った者にリターンができるか。貧富の格差を肯定する者にリターンができるか。犯罪者の娑婆への復帰のように、カンタンにいくだろうか。安易に結論は出せない。リターンしたくても、リターンできない人もいる。生きなおすことへの問いかけ(この芝居からそこまで言うのは大げさだろうか)も含まれていると思う。

 唐突だが、日本のマリリン・モンローは大路恵美である。アーサー・ミラーが赤狩りで大変なときに、彼を擁護したのがモンローであった。モンローの偉大さは、体のサイズではない。知的な勇気にこそあったといわなければならない。原水爆禁止世界大会に賛同のメッセージを寄せる大路こそ、知的な勇気ある女優として称えられよう。モンローも来日時、ヒロシマを訪れた。晩年も水爆実験にも反対していたという。日本の芸能界にいる俳優たちも、社会に眼を向け、行動する人が増えることを願う。吉永小百合、渡辺えり子、大路恵美…もっともっと現れてほしい。そして、われわれもまた社会に眼を向け行動する勇気ある俳優を応援しようではないか。

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2007/03/21

池の下「中国の不思議な役人」

(29)池の下「中国の不思議な役人」麻布 die pratze

 バルトークが書いた「中国の不思議な役人」という音楽劇を、変人(でも、やはり奇才の)寺山修司が不思議な物語に変換してしまった芝居である。隠されたテーマは、歴史への嫌悪(でも、やはり運命を支配するものへの嫌悪)だろう。しかし、寺山は歴史好きだったのではないか。そうでないと「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」なんて短歌をつくるはずがない。「身捨つるほどの祖国はありや」と問うことは、歴史を問う視点にも通じている。実際、池の下の芝居では最初の方に、マッチを擦るシーンがあって、素朴に感動してしまった。長野和文という演出家は、なかなか面白いぞー。

 若い演劇人を熱狂させる力を寺山修司が、死してなお保持していることに、まず驚いた。さらに、寺山は、とにかく逆説好きだったことを確認できた。書を捨てよ、なんていうが、寺山みずからは、書物を生産していた。逆説の力で「日本人」の目を覚まさせようとしたのだろう。それがどこまで成功したかは、寺山ファンの数がバロメーターになっているといえよう。目が覚めていない人は、あまりにも多いが…。

 この物語は逆説的である。中国大陸で女を陵辱したのは、日本軍であって、中国の役人ではない。しかも、中国の役人は死なない(死ねない)のではなくて、実際に中国人は大量に殺戮された。余談だが、安倍首相の慰安婦問題での大後退発言(多くはホンネの形をとる)「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行ったというような強制性はなかった」は、歴史の事実にたいする無知(無恥?)にもとづく。事実は、寺山の戯曲「中国の不思議な役人」で、人さらいにさらわれる中国人の少女花姚のような悲劇にまきこまれたのだ。歴史を知らない安倍首相は、当然のように、自分の発言が何を意味しているのかわかっていない。

 しかし、歴史嫌いのように見えて歴史好きの寺山の場合は、こんなに人間を侮辱する歴史なら、芝居のなかで歴史の事実をひっくりかえしてやれと挑発するように物語を作り上げている。アベコベな安倍首相には、思いもよらない発想だろう。寺山は、鏡に映す具合に日本人の自画像を反転させて、鈍感な者らにつきつけようとする。狂った世界を多くの人に知らせるには、狂った世界を逆説的に描くという方法があったのだ。寺山修司ってスゴイね。うーむ。気づくのが遅すぎる。

 通常、「中国の不思議な役人」という芝居のねらいは、愛と死とエロスの物語を観客に提示することにあるのだろう。愛すると死ぬ、生きようとすると愛せない、究極のジレンマをつくりだして、人さらいに連れてこられた少女を前にして、おまえはどうするかと問いかける。愛さない(愛せない)人間を痛烈に諷刺しているのかもしれない。

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2007/03/18

加藤健一事務所「特急二十世紀」

(27)演劇集団円「ラプチュア うちょうてんな人々」ステージ円
(28)加藤健一事務所「特急二十世紀」本多劇場

 無礼な人間が増えている。とくに駅構内での歩き方がほんとうにひどい。人にぶつかっても、全然謝らず、走り去ってゆく。ある意味で、うちょうてんな人々、自己中心主義中毒の人々ではないかと思う。東京という腐敗しつつある「都会」(おそらく、東京に住んでいてもまともな人はいるし、古くからの江戸っ子気質を受け継ぐ人、下町文化を維持する人々、東京郊外は別として、もう「都会」とすら呼べないかもしれない。ただの烏合の衆の集積体と化しつつある。最近、とくに人間関係の冷たさを感じる)が、「他者」「他人」という存在をぞんざいにする。使い捨てにする。資本主義をもとにした日本の社会実験は、いよいよ最終段階に入ったのではないか。本来、資本主義というのは、発展して、次の段階へゆくはずであった。しかし、資本くいつぶし主義となってくると、地球を滅ぼす方向へと進む。柴田敬という経済学者が、すでにこのことを指摘していたが、地球をまず維持しないと未来社会も展望しようがない。

 さて、16日に見たラプチュア(うちょうてん)な人々の芝居が提起するものは、三組の夫婦に起こる変化、虚飾のひきはがし、豊かさとは何かの問いである。火事で家を失った夫婦が到達した精神世界に、他の二組の夫婦の表層的な幸福、あるいは幸せを演じてきた仮面がはがされてゆく。お金持ち、バブルで成金になったオーストラリアの夫婦にも、満たされない生活がある。ホリエモンの哀れな「現在」をみるとき、彼の幸せの地点のどうしようもなさ、気づかなさに身震いする。山崎豊子『沈まぬ太陽』を拘置所暮らしで読んだという、あのしおらしさはどこへいったのだろうか。なるほど、ラプチュアが提起するのは、物質的な豊かさと違う人間の精神世界の豊かさでもあっただろう。

 オーストラリアの女性の脚本だが、唯一、不満なのは、悟りを開いたかのような夫婦が、宗教的な高みから他の二組の夫婦を見ることである。芝居を下支えする基底的な世界観としてキリスト教の匂いがする。悟りを開いただけで終わるはずがない。悟りを開いただけで充足するとしたら、精神的な貴族趣味へ移行しただけではないのかと問いたい。
 物質的生活に充足している人々の暮らしは、あるとき、逆転してしまう。貧しさが価値をもつ。モンゴルの砂漠に郷愁を抱く。アフリカのサバンナに幻想をもつ。清貧の思想は、ほんとうに貧しいところからは生じない。禅が、どちらかというと、インテリ層、プチ金持ち層に評判が良いことを勘案すると、自己満足の別表現でもあるように思う。

 すると、ラプチュアが提起するのは、自己中心主義の人々の隘路でもあろう。難しい問題を提起した芝居である。何も解決してはいないが、何かを解決しようとするきっかけを得た夫婦たちの物語でもあるといえる。演劇集団円は、数ある劇団のなかでインテリ劇団の筆頭であるといって良いだろう。玄人受けする芝居だと見た。

 17日に見た加藤健一事務所「特急二十世紀」は、プロデューサーと女優との恋愛を軸にした、肩の凝らないドタバタ喜劇である。しかし、加藤健一の芝居にかける思いが、主人公の思いと重なって、伝わってくるところが爽快である。人気女優を演じる女優さんの熱演もあって、テンポの良い芝居に仕上がっている。キリスト教もパロディーの対象になっている。キリスト教の信者がこの芝居を見ると、どう思うだろうか。寛容に見ることができるか、それとも不寛容の立場で見るか。ほんとうに芝居好きの人が見ると、この芝居には、いろんな他の芝居の要素が含まれているので、それを楽しむこともできるだろう。劇中劇の要素あり、舞台の裏側を見せる要素あり。芝居を愛する人のための芝居であろうか。この国の演劇にたいする文化行政の貧困さを、あからさまに示すのではなく、物語の背景において暗示させるにとどめ、舞台ではまったく示さず、それでいて嫌味がない。加藤健一、さすがである。

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2007/03/16

松元ヒロ「ソロライブ」大絶賛

(25)松元ヒロ「ソロライブ」アールズアートコート

 パントマイムの世界には、二つの派があることを初めて知った。コメディーを追求する派と芸術を追求する派。この両方の派に学んだ唯一人のパントマイム芸人が松元ヒロだという。

 すでに全席完売という人気。確かに、さもありなんと、うなずけるソロライブだった。まだ見ていない人は、ぜひ一度、松元ヒロのライブを断固としておすすめする。夕張をめぐるマス・メディア報道の異常さを痛烈に批判していた。爆笑につぐ爆笑で、おもしろすぎて涙がとまらない。年をとると、涙もろくなる。ほんとうに。
 
 ネタを明らかにすると、松元ヒロの芸のおもしろさを奪うことになるので、内容は紹介しない。確かなパントマイムにささえられた、鋭い観察に裏打ちされた、人間愛に満たされた、実にみごとなワンマンショー。今年度ナンバーワンの芸。今年度はあともう少しで終わってしまうのだが、来年度も通用する芸だといって過言ではない。アドルノ先生(1903~1969)が、松元ヒロの芸を見たら、複製芸術の時代のパントマイム芸人の鋭い時代批判を見てとるだろう。

 素人がプロを食いつぶそうとするお笑い業界だが、ほんとうのプロの芸というのは、人間を見る目からして違うのだ。あったかい気持ちにさせてくれる松元ヒロのライブ、大好きである。

(26)劇団桃唄309「トレイン・ホッパーズ」ザ・ポケット

 さて、劇団桃唄309の「トレイン・ホッパーズ」。列車に飛び乗って旅をする冒険野郎たちの物語に、ものすごく期待していたのだが、ズッコケタのではないだろうか。せっかく良い俳優たちが集まっているのに、まだ芝居として完成されていないように思う。印象に残るセリフもすくない。登場人物の造形も中途半端な感じがした。

 冒頭、歴史を問う前口上のセリフは良かった。問題はその後である。過去→現在←過去と、場面転換が早すぎて、観客を置き去りにしている。断片ごとにおもしろい要素はあるものの、ドラマ性が逆に失われていくように思った。セリフを大事にしてほしいと思う。身体表現も大事にしてほしい。列車の上に乗って旅している感じが丸でしない。せめて、おっとっとぐらいの演技は必要ではないか。

 比較するのは変だが、井上ひさしの場合、観客に伝えたい言葉へ芝居をもっていく集中度がスゴイ。良い演出家に恵まれている面もある。起承転結、序破急という物語の展開をきちんと守っている。

 映画などで起承転結を崩す作品はある。しかし、感動はうすい。あとは、不条理劇として真正面から演じるぐらいだろう。

 今回の劇団桃唄309公演は、急急急という感じ。共産主義への誤解を招くセリフもあった。

 訳のわからん芝居の系列は、どうも、源流が同じようだ。舞台のうえで、三つぐらいのグループにわかれて、ペチャクチャしゃべる。どのセリフに聞き耳をたててもらいたいのか、作者の意図がわからない。そういう戯曲、演出が流行しているのだとしたら、もうそろそろ止めたらどうだろう。芝居を見にきたのであって、雑談を見にきているのではない。観客の脳細胞に刺激を与えたいのだろうけれど、見終わって、何も残らない。苦痛だけである。

 芝居を、一人の脚本家と演出家が兼ねるのは、むずかしい面があると思う。できれば、別々がのぞましい。二人で脚本・演出なら許せる。せっかく、歴史に存在した人々のはかないたたかいを表現しようとしたのだから、さらに芝居として練り上げることを希望する。

 

 

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2007/03/14

国立劇場・歌舞伎公演「蓮絲恋慕曼荼羅(はちすのいとこいのまんだら)」

(24)国立劇場・歌舞伎公演「蓮絲恋慕曼荼羅(はちすのいとこいのまんだら)」国立劇場小劇場

 別役実によれば、ママさんコーラスはあっても、ママさん演劇はないという。
 とすれば、さしあたり、お母さん方が参加する劇団Tomorrowは貴重な劇団ということになろう。

 さて、ママさんバレーはあっても、ママさん歌舞伎は考えにくい。そもそも、歌舞伎は男がやることになっているからだ。女ばかりの宝塚歌劇にその昔、男が参加していた時代があったことは、近々芝居になるらしいが、歌舞伎に女が参加していたとは、出雲の阿国の歌舞伎にまで遡らねばならない。前進座の歌舞伎には、女性も参加したりする。これは、これで正しいあり方だと思う。いまこそ、ママさん歌舞伎を! とひとまず叫んでおく。

 さても、さても、全席完売、追加公演も完売の坂東玉三郎である。初瀬と豊寿丸という異母姉弟の悲恋話である「蓮絲恋慕曼荼羅(はちすのいとこいのまんだら)」は、歌舞伎ながら今日的なテーマといえるだろう。玉三郎の演技が図抜けている。ドラマツルギーが何によって高められるか、熟知した所作である。玉三郎でありながら、玉三郎でない、初瀬でありながら初瀬でない。美しい型をくずさない。芝居通によると、古典劇にたいして新劇、現代劇は美しすぎてもよくないらしい。歌舞伎もどこかで型を崩しているのかもしれない。でも、バランスのいい体の動きである。虚空を意識した身のこなしなのである。役に徹しきれるなど、そもそもできるわけがないと知りながら、なおも、あえて役を演じようとする。みずからの身の置き所を舞台空間のなかでわきまえているという趣き。玉三郎を観察するだけで、おそらく俳優術の本が一冊書けるだろう。写真集だけではもったいない。

 市川右近の演じる母親役が憎憎しげで、滑稽味すら感じさせる役柄。楽しんで演じている様子が伝わってくる。悪役も、これくらいの悪役になると、割りきれるらしい。いい役者である。テレビのコメンテーターで登場する市川春猿も演技の最中とそれ以外では別人のよう。成長株なのだろう。

 社会のモラルハザードにたいして歌舞伎から応答がなされた芝居。玉三郎が演出にとどまらず、なぜ主役を引き受けたのか、なかなか興味深いのである。

 

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2007/03/11

劇団Tomorrow ミュージカル「アリーテ」

(23)劇団Tomorrow ミュージカル「アリーテ」ブディストホール

 三島由紀夫の葬式がおこなわれたことでも有名な築地本願寺。結構、有名人の葬式がおこなわれるところである。読書人の間にも知られる有名な奇人、大谷某なる探検家の建てた寺で、建築史上も注目される奇妙な形状をしている。ちょっとした東京の名所でもある。この寺でお経を聞くと、摩訶不思議な音楽空間を体感できる。ああ、アドルノ先生(1903~1969)が生きておられたら、なんと叙述されたであろうか。「グート」と一言、のたまわれたのではなかろうか。
 この築地本願寺本堂の右隣にあるブディストホールで、アマチュアの劇団Tomorrowのミュージカル「アリーテ」を見た。
 お話は、既読感(読書的デジャヴ? あるいは、ありきたり感覚)のあるお姫さまの難問解決ストーリーで、友情をくどいぐらい強調していて、子ども向けといっていい。魔法を使って、わざわざ絵の具、裁縫道具、紙とペンを手に入れるところが現代世界への批判になっている。モノがあふれる社会の逆説である。この三つの道具があるだけでも、いろいろなことが成し遂げられる。
 何かに囚われる魔法使いの情けない風情も見所だろうか。主役アリーテを演じていたのは、なんと郵便局員のおねえさんで、どこか寺島しのぶを小さくしたような感じ。大手電機メーカー(大企業といっていい)社員、看護師さん、IT企業社員、フリーの俳優さんたちも客演して、既視感のない存在感を出していた。体太めの方々が狭い舞台を歌いながら踊るのは、ユーモアすらある。

 将来の社会では、みずから演劇に参加できるアマチュア劇団が増えるだろう。見るだけでなく演じるのである。しかし、アマチュア劇団の公演をみると、プロのすごさがよくわかる。ミュージカルという限りは、歌が良くなくてはいけないのである。

 

 

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2007/03/10

地人会「ブルーストッキングの女たち」

(22)地人会「ブルーストッキングの女たち」紀伊国屋ホール

 木村光一率いる演劇制作体、地人会の今年の大型演劇第1弾である。20年ぶりの再演も話題だ。初共演者も多く、初日の緊張感が伝わってくる。稽古が充実していれば、早くお客さんの前で演じたいという意欲も湧いてくるだろう。役者たちから吹き出るような熱が伝わってくる舞台だった。

 大杉栄、伊藤野枝が主人公だが、脇役も主役を食い殺すぐらい派手で、いろいろなドラマを織り込んでいる。純名りさは、野枝を力いっぱい演じながら、さわやかさを醸し出すことに成功している。上杉祥三も大杉栄の不敵な面構えを伝えている。動きが美しい俳優だ。かとうかず子の平塚らいてうは、今話題の女優さんが演じるだけあって、不思議な切実感がある。旺なつきの松井須磨子は、ほかの場面を食ってしまうほど迫力がある。宝塚の男役でブイブイいわせていた女優さんだけに、ほんとうに男っぽいのだが、しおらしい演技のところはユーモアがある。加藤忍もいい。佐古真弓もいい。とにかく、女優がズラリと並ぶシーンは、ええっ!?と思うぐらい豪華である。これだけの役者を集めるとは、恐るべし木村光一。場面、場面も、しっかりとつくられている。ほー。
  
 まともな社会主義者が出てくる前の物語。女性に参政権がなかった時代。人形でなく、人間として生きることに目覚めた時代。恋愛から刃傷ざたになる場面もあるけれど、冷血な権力を示すことで、センチメンタリズムからの脱却を促す芝居だと見た。見ておいて損はない。

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2007/03/09

イルホム劇場「コーランに倣いて」

(21)イルホム劇場「コーランに倣いて」パークタワーホール

 ウズベキスタンからぶっ飛んだ劇団がやってきた。いわゆるアヴァンギャルドの流れをくむというべきか、ともかく、超実験的なイルホム(アラビア語でインスピレーションの意味だという)劇場の「コーランに倣いて」である。

 体を鍛えぬいた俳優たちによるダンスが中心の芝居だが、ビデオカメラの活用によって、不思議なことにライヴ感覚が増す効果を狙っている。リアルタイム感覚というべきか。しかも、コーランを朗誦するかのようなヴォーカルの心地よい歌によって、すべてが許されるかのようなやさしい雰囲気に満ちてくるのが不思議である。寛容の精神を演劇にするとこうなるのだ、という一例だと思う。

 肉体が交じり合う映像や内臓の映像も出てきて、面食らうが、ウズベキスタンは日本と違って、私的空間と公的空間の楽しみ方が純粋な感じがする。ウズベキスタンでは、こういう演劇を娯楽として堂々と見て、芸術性の高さを競いあっているのである。少しもいやらしくない。逆に、日本は、エロ(エロスではない)映像が常備(例えばビジネスホテルなどの有料チャンネル)されている割に、芸術の場での美的昇華が欠落している。私的・公的空間がほんとうに解放されていないのだ。別の言い方をすれば、人間の欲望を芸術の領域で真正面から検討する機会が少ないというべきか。

 とにかく、イルホム劇場は、実験的な表現が強烈である。しかも美しい。日本の演劇に不足しているのは、なんと「美」なのだ。能・狂言、歌舞伎には「美」があるのに。日本の劇作家たちは、「コーランに倣いて」を見て、反省を迫られるのではないか。

 旧ソ連は、いろんな文化をのみこんでいたものの、それが海外に知られることは稀といってよかった。ほんとうの社会主義とは無縁のソ連の解体が、演劇の世界にも良い結果をもたらしたことを確認できたと思う。ロシアやウズベキスタンの人たちの芸術にかける情熱というのは、畏敬に値する。ロシア→ソ連→ロシアという過程でも、芸術への真摯な態度は変わらない。イルホム劇場、今後の公演は、要注目である。

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2007/03/08

KOKAMI@network「僕たちの好きだった革命」

(20)KOKAMI@network「僕たちの好きだった革命」シアターアプル

 狼少年、鴻上尚史の芝居である。S席7500円也。シアターアプルは、700人収容の劇場、新宿コマ劇場の地下である。当日券があるものの、ほぼ満員。大したものである。客層は圧倒的に若い。開演前、鴻上も舞台で役者たちと話したり、歌を歌ったりと、サービス精神旺盛である。彼のサービス精神だけは、他の劇団も学ぶべきものがあるように思う。主演の中村雅俊も開演前は客席に座ってみたりと、とにかくリラックスした雰囲気をつくりだすうえで効果がある。松たか子主演の「ひばり」でも、俳優たちは舞台に集合みたいな形態だったらしい。遅れてきたらしい俳優が、鴻上に言い訳をしていた。

 積み木くずしの俳優さんも見にきていた。終演後の観客の会話を聴いていると、俳優たちが客席を駆け回ることを喜んでいた。芝居を身近に感じたらしい。

 芝居は、1969年当時の高校生として学生運動(芝居では明確に全共闘)をやっていた男が、機動隊の催涙弾を受けて意識を失い、30年後の1999年に目覚め、高校2年生をやり直すという破天荒なタイムスリップものである。時代のギャップを意識するセリフが、若年層の心をつかみ、快テンポで話は進む。ただ、説教くさい面もある。女子高校生役の人物が物語の進行役を務めるので、ソフトにも見えるが、観客に考えさせる場面は意外に少ない。かつて全共闘だった人物が高校の教頭となり、逆に生徒を弾圧する側に回っているところは皮肉が効いていて良い。

 しかし、この芝居の重大な問題は、「革命」の中身が、陳腐な暴力沙汰に終始していることだ。1969年という基点を設定してしまったことで、最初から躓いている。なぜ今、あえて、こういうテーマをとりあげるかは、判然としない。還暦を迎えた全共闘世代へのノスタルジー、郷愁、オマージュ、憧憬といってしまえばそれまでだが、今の若者を鼓舞、激励、批判、揶揄する意味で「全共闘」を持ち出すのは、まったく「ナンセンス」である。同じ間違いをもう一度繰り返せというのだろうか。

 少なくとも、1969年を描くのであれば、1960年から1970年にかけての日米安保闘争への言及は避けられまい。芝居では、巧妙に、そのような政治的側面は抹殺されている。当時の学生・生徒たちの暴力的対抗手段はまったく重大な欠点であるが、政治への問題提起の中身は、吟味される必要がある。学生・生徒たちには、怒る力があった。

 1969年といえば、アドルノ先生が亡くなった年でもある。アドルノ先生も、ドイツの学生反乱の片棒を担いだようにいわれつつも、実際は、暴力学生たちの妨害にあっていた。
 いわゆる、ひとつの、ニセ左翼暴力集団だった学生たちは、その暴力的闘争なるがゆえに、何も変革しえず、何も成し遂げることもなかった。お互いに殺しあうところにまでいきついた(芝居では、なぜお互いが殺しあったのかの疑問の提示はある)。あまつさえ、警察権力とつながっていた暴力学生がいた。「革命」という言葉を隠れみのにして、実は、ほんとうの革命への妨害勢力、反動勢力だったのである。芝居では、高校生の女性が、のちにパレスチナへいくことになっている。おやおや、「革命」は、パレスチナにしかないのだろうか。鴻上の目には、ラテン・アメリカの人たちのたたかいや、日本国内の「たたかい」は目にとまらないのだろうか。

 少し芝居を批判しすぎたかもしれない。役者たちの熱演に、観客は熱狂している。ただし、全共闘への無批判な姿勢だけは批判したい。今、学生・生徒たちが怒らなくなって久しい。だれも怒っていないわけではない。全員が沈黙しているわけでもない。せっかく、「革命」というテーマに挑戦するならば、権力を正面から見つめ、働く人々も含めた世界のなかで探るべきではないだろうか。

 

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2007/03/06

CATプロデュ―ス「グッドラック、ハリウッド」

(19)CATプロデュ―ス「グッドラック、ハリウッド」紀伊国屋サザンシアター

 敬称略で書くことにします。演劇関係者に「さん」をつけるほど、親しくもないし、「さん」で呼べるほど、偉くもないので。批評というのは、およそ敬称略が基本です。ここに書き連ねているのは、批評というより、「感想」という方が正しいでしょう。

 「グッドラック、ハリウッド」は、長塚京三、久世星佳、筒井道隆ら芸達者な俳優と、ビリー・ワイルダー監督を思わせるセリフでおしゃれな舞台に仕上がっている。ワイルダー好きの三谷幸喜が見たら、どういう感想をのべるだろうか。

 久世は、宝塚歌劇団出身。発声もいいし、コミカルな演技もできるし、宝塚というのは、総合的な俳優を生み出し、しかも、一人ひとりのスターが熱烈なファンを惹き付けているので、引退後も、芝居に出演すれば、観客動員も期待できる。制作側が、宝塚出身者を登場させたがるのも、むべなるかな、なのだ。久世は、ハリウッド映画を模写してような味わいも醸し出している。大したものだ。老映画監督に、ひそかに思いをよせている雰囲気、衣装を替えて登場する場面には、華がある。今回の役柄は、久世の力量をもってすれば、ややもったいないかもしれない。短い登場シーンでも光れば、それは激賞すべきことなのだろう。

 長塚は、出だしは、やや早口ながら、徐々にゆっくりした話し方になっていく。これは計算されたものか、あるいは、アガリ症によるものか。判然としがたいが、割りきった演技に徹している。演出家の指示によるものだろう。老映画監督にしては、元気が良すぎる感もあるが、映画への情熱をもつ仕事人を造型しようとしている。セリフ回しもテンポを大事にしているのだろう。男の哀愁みたいなものを演じるとき、長塚京三は光る。無言の場面があって、その場面が特別に良かった。これは珍しい。セリフなしの場面を演じきるのは、役者にとっては冒険だろう。この芝居の見せ場かもしれない。

 筒井は、とぼけた味すら出し、自然に役にとけこんでいる。要するにウマイ。発声にやや難があるが、老映画監督をおちょくる場面はなかなかのもの。あまり観客の方を見ない演技が気になるが、それも、そういう演出だとしたら、別段、問題ないといえる。若手脚本家らしい雰囲気をもう少し出してもいいかも。今回の若手脚本家をいえば、宮藤官九郎のイメージ。あの線をねらってほしい気がする。勝手な要望である。テレビでも舞台でも、筒井は、役柄をわきまえた演技のできる俳優である。私がプロデューサーなら、筒井を起用して、何か芝居をつくりたい。ワーキングプアの芝居。いい味をだしてくれる気がする。

 それぞれの俳優から、想像をふくらませることのできるのも、おもしろい体験だった。

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2007/03/04

青年座「妻と社長と九ちゃん」

(17)MODE「変身」ザ・スズナリ

(18)青年座「妻と社長と九ちゃん」カメリアホール


 まずは、MODE「変身」から。F・カフカ「変身」を舞台化するとどうなるのか。興味津々だった。毒虫が、芋虫の形をしているということは、なんとなく想像していたが(蜘蛛のイメージをもつ人もいる)、確かに、最初から最後まで、あの姿で演じるのでは芸がない。ましてやモスラの幼虫が主役だとしたら怪獣映画ならぬ怪獣演劇というジャンルすら成立するだろう。もちろん、カフカ「変身」は違う。人間の存在、人間のもつ「認識」、ヨーロッパ社会の恐怖、追い詰められた人間と追い詰める人間などなど、ちっぽけな感想ではとらえられない宇宙を有している名作である。多様な解釈を許しつつも、ある何かが伝わってくる。小説の醍醐味が味わえる作品である。

 芝居では、働きすぎ社会のなかの、ひきこもり青年の物語のように転換してしまった感がある。えっ、そんな話だったかとカフカ「変身」への再読へ導かれる。小劇場での演劇は、もちろん実験、挑戦なので、拡大解釈、誇張したところもあるだろう。戯画化したり、喜劇化したりといったことから、身体性の強調、翻訳(解釈を含む)の更新も含まれている。最近、私自身、言葉がどうも荒っぽくなってしまっている。なぜ、そうなるか。相手の話に耳をすましていないからだ。「変身」を「見る」と、お互いを理解しえない隔靴掻痒の感覚が甦ってくる。つまりは、ザムザという「他者」が家族のなかに出現することで、ザムザを見る人たちも「変身」してしまうのである。変身した人も、その変身した人を見る人も変身する。お互いにわかりあえているなんて、あまっちょろい感覚は捨てなければならない。過剰な期待は禁物だ。全体主義、いわゆるファシズムが出現するのも、最初から、お互いはわかりあえている、話し合うまでもない、というような勝手な思いこみかもしれない。われわれは、お互いにわかりあえていない、話し合う必要がある。対話がないところに、平和はやってこない。そして、毒虫は、「処分」されてしまう。カフカはどこまでも現在を書く作家だと森敦はいった。「現在」は今も続いている。

 さて、青年座「妻と社長と九ちゃん」。吉本新喜劇でもない、松竹新喜劇でもない、喜劇をつくりだしている。しかも、結構、強烈なメッセージすらある芝居。実は、かなり日本社会の弱点、重たい問題を突いている。笑いながら、いまの政治への疑問が湧いてくる。「変身」とは逆に、人間がお互いを信頼しあい、理解しあっていくこと、人を愛することの素晴らしさをテーマとしている。日本の企業社会に即して、憲法の視点から問題提起しているといえるかもしれない。九ちゃんの「九」については、この芝居の核心でもあるので、説明すると興をそぐことになる。興味深いテーマなので、別に書くことになるかもしれない。しばし、猶予を。この芝居もおもしろいので、一度は見た方がいい、おすすめだ。3月九州公演が長くつづくので、九州にお住まい方は、必見だと思う。

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2007/03/03

新国立劇場「コペンハーゲン」

(16)新国立劇場「コペンハーゲン」(新国立・小劇場)

 時代、というより宇宙的視点から人類の今を洞察した演劇だった。知性的で、芸術性の高さでは、今のところ随一だろう。脚本、演出、俳優、舞台とどれをとっても選りすぐりである。改めて、どこかで書きたいので、走り書き程度にとどめたい。

 物理学、とりわけ量子力学が芝居になるとは、誰が考えただろう。超絶技巧の芝居で、ヨーロッパの演劇界の底力を見る思い。もちろん、演出家、俳優は日本の人だが、脚本は、海外の人である。ボーアとハイゼンベルク。日本の俳優が演じていても、外国人名に違和感がない。舞台装置をきわめてシンプルにしたこと、人間の心理、倫理に肉薄しようとしていることが、成功の秘密だろうか。

 脳みそが汗をかく芝居。考えさせられまくる芝居。沈黙するほかない芝居である。時間に余裕のある人は、ぜひ。アドルノ先生(1903~1969)が生きていたら、この芝居を見て熱狂するのではないだろうか。アウシュビッツ(オフィシエンチム)以後、詩を書くことは不可能ではなくて、可能であることを示す芝居だから。

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2007/03/02

文学座「初雷」

(15)文学座「初雷」紀伊国屋ホール 

 ※(15)とは、今年に入ってアドルノ的筆者が見た芝居の通し番号にして、意味なし。世の中には、今年に入ってすでに30本超を見ている「劇通」?がいるはず。

 さて、本命登場、文学座の「初雷」である。純文学を読み終えたような感動の残る芝居だった。3月5日までやっているので、まだ見ていない人は急ごう。現代日本社会は、家族への視点を欠いては、見えてこないものが多々ある。女性の生き方、家族の風景を真正面から問う真率な姿勢が、舞台から伝わってくる。

 文学座は、実に丁寧に演技をする劇団である。前進座も細かい芝居ができる劇団で大好きだが、文学座も一つひとつの場面をつくりあげていく集中力、脚本や演出家の意図に忠実であろうとする意思が感じられて心地よい。芝居を知っている証拠なのである。セリフと肉体表現のズレ、立場とセリフのズレ、状況の変化と人間関係の相関などなど、違和感や異化効果を観客に見せて笑いすら引き出す。これらは文学座の芝居でとくに顕著である。他の劇団で見ることができない。丁寧に芝居をつくることが、いかにすばらしいことか。激賞しても、なお足りない。

 主役の倉野章子さん、川﨑照代脚本に忠実に、藤原新平演出に身を投げ出して演じている。すばらしい役者である。家庭劇とは、単なる小空間の劇ではない。家庭という宇宙の劇である。それぞれの小天体が、目には見えない力で引き合い、牽制しあい、離合集散し、爆発している。家庭空間に漂う塵芥のたぐいも、家族関係に微妙に作用し、変化をつくりだす。練りに練られた脚本が、みごとに現代日本の家族を照らし出す。川﨑ワールドと呼ばれる由縁である。

 文学の世界でも、家族を描ききることは、難しい。相対化するには、並々ならぬ観察、研鑚、突き放し、同調し、愛憎相半ばする人間の内面に迫らねばならない。うそっぽいセリフは、浮いてしまうので、一言たりとも話すことができない。想像を絶する。橋田壽賀子、川﨑照代、この二人は、畏敬に値する。

 すごいなあ。人間の一生が無駄ではないこと、何によって光輝くのかということ。そういうことがジワジワと、詰め将棋のように追求されている。家族一人ひとりの人生の目覚めに、初雷が轟き、鳴り響くのである。必見の芝居。

 

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