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2007/02/27

俳優座9条の会

 26日夜、俳優座劇場でおこなわれた俳優座9条の会とみなと・9条の会の集会は、誠に充実した盛りだくさんの豪華版だった。

 加藤剛さん、すごい役者。声の迫力とか、身のこなしとか、語られたエッセイの中身とか、どれをとっても、加藤剛さんなのだ。清々しい空気が流れ出てくるようなあの存在感は、なんなのだろう。加藤さんなりにいろいろと今回の集会には思うところが多かったことを垣間見ることができる話だった。はあ~。すごすぎる。

 辻井喬さん、ジェームス三木さん。このお二人も、暗黒面からフォース(理力)まで知っているジェダイの騎士という趣き。一筋縄ではいかないお話。財界から、芸能界から、あらゆる角度からモノを見るような人たちである。

 理想を高く掲げて、遠くを照らすようなことをせなあかん。目的をはっきりさせなあかん。ほんま、憲法への熱い思いが伝わってくる集会でしたわ。

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2007/02/25

弘前劇場「真冬の同窓会」

(14)弘前劇場「真冬の同窓会」ザ・スズナリ

 芝居には、挑発系(あるいは主題撹乱系)と不動系(あるいは主題追求系)がある。

 弘前劇場「真冬の同窓会」(作・演出、長谷川孝治)は、挑発系で、しかも不条理・拡散・収束系の芝居だった。

 同窓会にありがちな風景を盛りこみながら、すべてが通りすぎようとする「時間」を具体化している。

 同窓会は、懐かしさの感情をかきたてるものでありながら、肉体の衰弱など「時間」というものの残酷さを示す。

 同窓会は、再会、出会いの場でありながら、亡くなったり、存在していない人間のことを強く感じさせる。

 同窓会は、名前と顔が一致しない現象を示しながら、人間の固定観念を打ち砕いてくれる。

 同窓会は、いつでも開けそうなものでありながら、いつでも開くことができない。

 同窓会は、偶然同じ組になった人々の結果であると同時に、同じ惑星に生きているかぎり必然である。生きているかぎり…。

 少し、森敦の小説の交響楽的要素に迫るものがあり、好感がもてた。セリフは、ごくごく自然な会話と見せ掛けながら、大森荘蔵(?)の哲学やら、なんやらをまぶしてある。これは意見がわかれるところで、度がすぎると、ひけらかし、賢しらが目立ち、嫌味になる可能性もある。

 いかに観客の読み筋を外すか。これは、文学にもいえることで、結末のわかってしまった物語は、おもしろさの8割ぐらい失われたと思ってしまう。結末がわかっていても、再読しておもしろいのは、ほんとうは最初から結末なんてどうでもいい小説の場合で、途中の物語がおもしろかったりする。芝居にも、途中の挿話がおもしろい場合があるものとみえる。交響楽的になるのは当然のことなのだろう。だから、単線的な芝居、小説は、ほんとうはまだ、ほんものの芝居、小説とはいえないのではないだろうか。

 「真冬の同窓会」は、最後に観客の読み筋を外してきた。みごとだった。同窓生の会話もおもしろい。とくに、馬を手に入れた女性の役割が光っている。

 ただ、二組のグループにわけて舞台で会話させるのは実験的だが、まったくもってセリフが聞き取りにくく、それほど意味があるとは思えない。リアルさを演出するためだけだとしたら、中途半端ではないか。もちろん、リアルさの追求だけではない演出がそこには隠されているのだろう。丸ごとの状況把握というものかもしれない。演技するのは、それほど難しくはないように見えてしまうのが弱点といえば弱点だろうか。

 そうそう。ブログの存在も、この芝居の隠し味にされている。そして、ネットには腐るほど情報があるというお決まりのセリフが出てくる。ほんとうにそうだろうか。いまやネットを検索したところで、意図的に組織された情報がヒットしたりする。検索エンジン次第で、抹殺され、ヒットしない情報もある。腐るほど情報があるのではなくて、情報が腐ってきているのではないだろうか。芝居の本筋とはまったく違うことだが、一つのセリフからも問題意識を触発される。

 芝居を見るのは、一期一会の楽しみがあるから。今見ておかないと、今度はない。
 

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2007/02/23

劇団東演「マーヴィンの部屋」

 アメリカの戯曲が日本で演じられるときの不思議さ加減というのは、やはり、解消されていないといわねばならない。例えていえば、能・狂言・歌舞伎を外国人が演じる以上の混乱がある。フールフォアラブを見たときにも感じたのだが、文化の微妙なズレみたいなものが顔を覗かせるのである。

 キリスト教やギリシア・ローマ文明、アメリカでいえば西部開拓民、大草原の小さな家みたいなところから出発する自由の観念、言論の自由にもとづく攻撃的なものの言い方などなど、芝居の言葉の端々に西洋に根をもつ文化が隠れている。日本の文化では、あまりおめにかからないものが、ユーモア、隠し味として盛りこまれている。
 いわば、海外文化の隠れたカタチが、違和となって浮上する。

 日本で演じられる西洋劇は、登場人物の名前や地名などの固有名詞はカタカナでも、演じられる中身は、ひらがなになっている。だから、徹底的に翻訳して名前や固有名詞も日本語にしてしまう方がいいのではないかとさえ思う。海外小説を読む場合は、外国人を頭のなかで想像しているので違和感はないが、芝居となるとそうはいかない。それ以外にも、抱擁、キス、十字のきり方など、しぐさは演じきれない。
 確かに、日米同盟のもとで、アメリカと日本は、政治的貧困、社会的貧困、文化的貧困の相において、共通するものが増えている。アメリカの芝居でも、日本で意外と通用してしまう条件はある。それでも、あえて、なお、何かはみだしてしまうものがあると言いたいのである。

 アメリカのお菓子を劇中でやりとりしている場面ですら、日本を感じてしまう。なんなのだろう。これは。

(13)劇団東演「マーヴィンの部屋」本多劇場

 「マーヴィンの部屋」もアメリカの物語である。長い間、離れて暮らしていた姉妹が和解をとげてゆく。その媒介となるのは、病魔にとりつかれた父親であったり、病む叔母であったり、社会に不適合な子どもたちであったりする。結婚もせずに、親の世話を続ける女性。
 原作者は、アメリカに住む家族に、ありとあらゆる不幸を担わせ、心理実験を行うかのようである。介護世代の人々には、他人事ではない話。主人公のベッシーは、病になりながらも、みずからの人生への希望を失わない。家族を愛し続ける。

 あえていえば、ベッシーが家族への愛を絶対と思う背景と理由についての説明を欠いているのである。アメリカでアメリカ人がこの芝居を演じる場合、おそらく、説明不要のものがあるはずだ。日本で日本人がこの芝居を演じる場合、説明が必要になってくる。

 病と人間を見つめる芝居。病んでもなお、人間は強く生きてゆけるかという問い。あるいは、罪をおかした人間は更生できるかという問い。不治の病になっても、救いはあるかという問い。やはり、キリスト教が隠れている感じがする。神の救済みたいな。

 日米の文化の違いを超えて演じなくてはならないものがある。それは、「マーヴィンの部屋」で一番変化する妹役である。妹の意識の変化、認識の発展を演技で示さなくてはならない。これは力のいる仕事である。アメリカ映画では、メリル・ストリープが演じていたというから、さもありなん。いろいろと考えさせてくれる芝居である。

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2007/02/21

ミュージカル「ブルックリン」

 (12)ミュージカル「ブルックリン」東京芸術劇場中ホール

 アメリカ発のミュージカルだが、日本の役者たちが、それを消化し、何かを付け加え、みごとにこなす。しかし、日本とアメリカとの外交関係に、こういう創造はあるだろうかと考えさせられた。それはさておき、ブルックリンという街は、アメリカでも人気らしいが、日本でブルックリンにあたる街はあるだろうか。逆にいえば、アメリカに渋谷にあたる街はあるだろうか。

 父を探し求める少女ブルックリンの話を語りきかせるド根性大根のストリートミュージシャン物語のミュージカル、ブルックリンは、歌いずくめで、衣装替えや場面転換、道具運びも自前と役者たちも忙しい。ベトナム戦争をひきずるアメリカが、このミュージカルにも少し顔を覗かせる。
 アメリカは今も、「戦後」を生きている。「イラク戦争後」でなく、「ベトナム戦争後」を。すでに「イラク戦争後」の事態は深刻化しているが、ミュージカルの世界でそれを告発するのは、まだなのだろうか。

 マルシア、シルビア・グラブ、石井一孝、今井清隆ら実力派に新人の女性が加わるミュージカル。とくに、マルシアがすごい。テレビでは、古風な日本語を駆使して変なツッコミをするだけのおねえさんだが、ミュージカルの世界では、実力派らしく、すべての場面、場面が決まっている。歌も抜群。ひっぱりだこの人気で、このあとの出演作も目白押しである。
 シルビア・グラブも役どころをを完全につかまえていて、この人もミュージカルをするために生まれてきたかのよう。他の役者の邪魔をしない。控え目ながら、ちゃんと主張はもっているらしいことが伝わってくる。アメリカで本来の「ブルックリン」を見ているだけに、彼女の立ち居振る舞いが、今回のミュージカルへの批評的な意味をなしているかと思う。

 新人さんは、周りの4人に圧倒されて霞みがち。可哀想だが、まだまだ緊張しているのだろう。ミュージカルの経験としては、とても恵まれたスタート。ミュージカル俳優は、一朝一夕に誕生しないことを教えてくれただけでも、感謝しなくてはならない。人生経験なり、歌の修行なり、役者としての経験などがモロに出る。コワイねえ。これは、あらゆる芸術にいえることで、自戒せねば。願わくば、コメディエンヌぶりをもう少し発揮すれば…。ぶすっとした顔をしている場面があるので、それが残念。

 とはいえ、あえて新人さんを起用した意味もわかる気がする。新人の彼女を助けようとベテランが奮起してアンサンブルが育まれる。新しい人が加わることは、常に楽しくうれしいことなのだ。

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2007/02/20

ク・ナウカ「奥州安達原」(訂正版)

 戯作観劇三昧の日々。
 
(11) ク・ナウカ「奥州安達原」文化学園体育館特設舞台

 芝居は、訳のわかるもの、訳のわからぬものの二つに分類される。訳のわからぬ芝居でも、謎を解くカギになる言葉や場面がある。それを手がかりにして、芝居全体を振り返る。そして、ようやく、何をいわんとしていたのか、おぼろげながら見えてくる。少しわかったつもりになる。しかし、まだわからない部分がある。
 焦らされ、待たされる快感。解き放たれた歓喜。ク・ナウカ「奥州安達原」は、そういうことを意図的にめざした芝居である。スピーカー(語り手)とムーバー(演じ手)の分業を特徴とし、古い東北弁らしいセリフもあり、すぐにわかることを拒絶するかのよう。
 DVDやCDつきのチケットなので、6000円は安いのかもしれない。オマケは未見である。楽しみにとってある。

 今回の芝居をもって、ク・ナウカは、活動を休止、俳優さんたちはソロ活動に入るらしい。劇団を主宰してきた宮城聰さんが4月から静岡県舞台芸術センター(?)で芸術監督になるかららしい。初日は、ほぼ満席。当日券が足りず帰った人もいた。しかし、キャンセルは必ずあるから、どうしてもみたい人は粘るのも一手。27日まで上演している。

 芝居は、客席への語りのなかから始まる。観客の参加意識を募るねらいがある。徐々に、異空間へ誘われる。老女がいつのまにか姿を現している。ネタバレになるから、注目すべき演出、効果は、あえて書かない。
 
 夫を殺された復讐に固執し、2人の息子を盛りたてることを願い、ときの政権に対抗するために拉致した皇族の息子の病気を治すと称して、お腹に赤ちゃんがいるわが娘を知らずのうちに殺してしまう老女の話なのだが、いわば、人を殺すこと、イラク戦争への批判が隠されている。宮城聰さんも演劇専門のサイトでインタビューに答えているから、そうなのだ。戦争も回り回って、わが子を殺しているようなものではないのか。そう語りかけてくるような気がする。しかし、見る人によって感想はまったく違うだろう。江戸時代の人形浄瑠璃が、現代に響きあう。

 能に学び、立ち居振る舞いなどを歌舞伎や狂言に学び、影絵や音楽などをアジアの文化に学び、ボレロのリズムすらある。70年代演劇の残り香もある。いろんな分野の俳優が参加すると、さらにおもしろくなる芝居かもしれない。ク・ナウカが活動を再開したとき、どれだけ力量を倍化させているだろう。興味津々。
 
 拒否反応を起こす人もいるだろう、ハマル人もいるだろう。賛否両論の芝居もまた楽しからずや。

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2007/02/18

tpt「薔薇の花束の秘密」

(10)tpt「薔薇の花束の秘密」(ベニサン・ピット) 2月17日~3月

 東京・両国にある有名な小劇場空間のベニサン・ピット(もともと染料工場だったらしい。稽古用のスタジオを備えた劇場ビルという感じ)で、「薔薇の花束の秘密」を見た。初日だった。役者さんは誰でも初日は緊張するものらしい。しかし、出だしから初日らしさを感じさせないリズム感がある。初日には、必ず演出家が姿を見せる。らしい。実際、客席にいた。ほかにも、舞台美術家の朝倉摂さんらしき人物がいたが、本物だろうか。すべてが幻想にみえる。原作は、蜘蛛女のキスのマヌエル・プイグ。映画好きのアルゼンチン出身の作家で、没後17年になる。初来日を果たした年に亡くなったらしい。

 ベルばらで宝塚の一時代を築いた安奈淳さんと劇作家矢代静一の娘、元宝塚の毬谷友子さんの競演で、見ごたえのある芝居だった。この2人を間近で見られるなんて、めったにない機会ではないだろうか。長いセリフをものともせず、二重人格、三重人格のような演技を披露する。安奈さん、スゴイ。凄すぎる。お金持ちの女王様を演じさせたら、日本の演劇界でピカイチだろう。なんとも、ぜいたくな患者役。立ち姿もいい。はあ。むはあ。

 対する毬谷さん。声色を変えて、身振りもかえて、三人くらいの人物を演じわける。実はすべて付添婦という一つの役柄なのだが、患者が夢を見たり、付添婦自身も夢を見たりで、白昼夢的なシーンでは別人格になるのである。ピース・リーディングにも参加する本格派の俳優さん。アウラというかオーラというか、妖しい雰囲気を漂わせているし、舞台で涙もほんとうに流してしまう。おいおい。2人芝居と思えないくらい楽しませてくれる。お得。
 2人ともスゴイ、スゴイというしかない。声もいい。声量十分。

 アルゼンチン・タンゴのBGMが最初と最後に。

 プイグ原作の新訳なのである。最近、海外文学の世界でも新訳が量産されつつあるが、これは翻訳権やら何やらの理由もあるらしい。セリフの意味や意図を類推しつつ、もう一度芝居をみたくなる。人間よ、想像力を発揮してごらん、薔薇の一本一本からも物語は生まれるのである。

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2007/02/17

パルコ劇場「フール・フォア・ラブ」

 (9)パルコ劇場「フール・フォア・ラブ」

 ご存じ、市川猿之助さんの血を引く香川照之さんと尾上菊五郎さんの血を引く寺島しのぶさんの歌舞伎血族がっぷり四つの演技を見せる注目の芝居だが、スベリまくりの演出のために、役者さんたちが可哀想だった。役者のインスピレーションにまかせすぎるのは危険すぎる。やはり、台本をとことん読み解いたり、演出家の役割というものがあるのではないだろうか。演出がいかに大事かを教えてくれる芝居として反面教師的に勉強になった。芝居としては改善の余地ありなのだ。香川さんや寺島さんがドアを開閉するたびに鳴る効果音(というより爆発音の「ドカーン」)も笑う以前にうるさすぎる。

 なかなか日本人ウケしない芝居だと見た。アメリカ人ならゲラゲラ笑うはずのジョークも含まれる設定が、ドライな日本ではまったくウケない。よ~く考えてみよう。アメリカの砂漠のど真ん中の町のモーテルで、2人の男女が激しくけんかし、かつ愛し合っているという状況は、なんともちっぽけというか、宇宙的に見ればシュールでとても笑える設定のはずなのだが、これが日本のホームドラマのウエット感が加わって、全然笑えない。かろうじて、甲本さん(?)が闖入してくるシーンで、ようやく笑える芝居なのだと気づく始末。アメリカTVドラマの声の吹き替え調にセリフを話す甲本さん(?)のユーモアに救われた感がある。

 舞台美術もなかなか凝っている。なんと驚いたことに寺島しのぶさんの大胆な着替えシーンまであるのだが、ヤマ場というものがみいだせないまま終幕となる。そもそも、なぜ、部屋の隅に変なおっさんが最初からいるのか説得力がない。老人の設定のはずだが、全然、老人ではない。壮年という感じ。すべては、老人の「妄想」(そうそう、そういえば、「捕虜」の「虜」の字には男という字が隠れている。古来、虜になるのは男という訳なのだ。全然関係ない話だが)の話ということなのだろうか。そうだとしても、わかりにくい。

 寺島しのぶさんは、おそらく舞台の真ん中で裸になることすらできる人なのだろう。迫力がある。香川さんも寝転がっての芝居で、まあ行儀の悪いこと、悪いこと。そういう役なのだから、いたし方ないのだけれども、演劇初心者としては、ああいうシーンは意外と見たことがない。まあ、イキのいい役者を見る芝居だと思えば、結構楽しめるのではないだろうか。

 望むらくは、笑いを喚起するような、つきぬけたエキセントリックさを! つきぬけた「愛」を言葉で、肉体で示してほしい。

 

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2007/02/15

青年劇場「博士の愛した数式」

 ひきつづき、芝居の感想…。

(7)北九州芸術劇場など企画・制作「地獄八景:浮世百景」(世田谷パブリックシアター)
(8)青年劇場「博士の愛した数式」(新宿・シアターサンモール)

※(7)(8)は、今年に入ってみた芝居の観劇通し番号にて、なんの意味もありもうさず。御免。
 
 不覚にも涙滂沱たり。青年劇場「博士の愛した数式」。小川洋子さん原作のミリオンセラーなれど、げにすばらしきは、ドラマツルギー。直球勝負の台詞にて、心揺さぶること、いとはなはだし。吉田のおばちゃんなる原作になき人物登場せしも、原作の味を損なわず、家政婦シングルマザーの人間的成長ぶりを描いてあまりあり。博士がケーキをひっくりかえす場面にて、客席から「あっ」の声あり。没入。必見なり。

 さても、さても、「地獄八景:浮世百景」。豪華絢爛たる舞台にて、落語、歌舞伎、小劇場系の役者が勢ぞろい。キッチュこと松尾貴史の芸達者に導かれて、元光GENJIの佐藤アツヒロ、高橋由美子ら大熱演。富豪刑事でお馴染みの升毅も脇を固め、落語のネタ、いくつ投入されているやも知れず、ただただ笑いころげるのみ。脳天気といえば、はいそれまでよなれど、桂米朝監修の芝居もまた楽しからずや。早替わり一見の価値あり。

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2007/02/12

飛ぶ劇場「正しい街」

 この間、見た芝居を列挙します。備忘録代わりです。

(1)こまつ座「私はだれでしょう」
(2)劇団NLT「宴会泥棒」
(3)流山児★事務所「浮世混浴鼠小僧次郎吉」
(4)俳優座「国境のある家」
(5)劇団民藝「はちどりはうたっている」
(6)飛ぶ劇場「正しい街」

 このあとも、文学座「初雷」、青年劇場「博士の愛した数式」などを見る予定。こまつ座から劇団民藝まで、いずれも見ごたえあるプロの芝居。プロらしい芝居ばかり見ると、逆に素人的な芝居が新鮮に見えるときがある。俳優修行は大変なのだ。舞台にカンタンに上がれるなどと思うなかれ。発声、体の動き、脚本の理解など、肉体と知性の両面が問われる。劇団民藝の役者さんは、発声が鍛えられている。良い声の役者が多い。滝沢修(瀧澤脩?)、宇野重吉以来の良い伝統がある。あらゆる芸術は、その両面が関わっているが、素人は、そのどちらかしかない。ような気がする。

 都会の廃校になった中学校の体育館を活用した東京・にしすがも創造舎特設会場で見た飛ぶ劇場「正しい街」が、意外にもおもしろかった。2月10、11日と東京では2日だけの公演。北九州芸術劇場など、泊篤志さんの作・演出で、テーマはキリスト教なのだ。10日は上演後に、映画監督で作家の青山真治さんが登場して、泊さんとトークするなど、お得だった。
 2人とも北九州出身で同じ高校の先輩後輩という関係だった。3年違いなので、青山さんが卒業したときに、泊さんが入学という具合。泊さんは野田秀樹の芝居を見て、演劇の世界に引き込まれたそうだ。
 しかも、2人ともキリスト教というテーマにひかれているらしい。聖書の物語は、日本社会を浮き彫りにするのに、有効なのだという。隠れキリシタンの話、島原の乱の前に福岡から長崎へ移り住んだキリスト教徒の話など、歴史もきちんと調べているのも、好ましい2人だった。「美しい国」を突き刺す「正しい街」。何が美しいか、何が正しいか。押しつけられるのは、非常に危険なのだ。なるほど、狂った世界を示すには、もう一つ別の狂った世界を提示することが、狂い加減の形象化に役立つのだ。

 訳のわかるもの、訳のわからんもの。芝居は、この二つに分類される、らしい。「正しい街」は、かろうじて、訳のわからんものと訳のわかるものの境界線上で作られ、演じられていたが、クライマックスで訳のわからんものに転化していて、なるほど(?)と思わせられた。人間の醜い姿、欲望まみれの姿を提出して、聖と俗を逆転させる。クスクスと笑っているうちに、人間社会が意外と理不尽な仕組みで運営されていることに思い至る。ほんとうはコワイ芝居なのだ。舞台装置は、能・狂言を思わせるほど、シンプルで、それがまた良い。素人感の残る、発声のできていない役者さんもいるのが残念だ。スピード感もさらに増してゆく必要があるだろう。その点を克服してゆけば、さらに見ごたえあるものになると思う。とはいえ、おもしろかった。

 泊篤志さんの芝居が東京にきたときは、今後、注目していく必要があるようだ。
 

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2007/02/09

井上ひさし「私はだれでしょう」

 井上ひさしさんの戯曲「私はだれでしょう」が『すばる』3月号(集英社)に掲載されている。芝居を見た後にこれを読むと、栗山民也さんの演出がどういうものかを思い起こすことになる。NHKに出入りしていた井上さんの体験、フランス座の経験、これまで培った劇作術のあれこれが投入された大力作である。

 夜10時台の電車に乗っていると、「私はだれでしょう」のパンフをもつ妙齢の夫人や女性、男性をみかける。大入り満員らしく、喜ばしい。パンフをもった夫人の顔は、美しい。ひきしまった顔をしている。芸術の影響力というのは、具体的なのだ。

 「国語元年」を京都・南座の天井に近い席で見たのは、おそらく20年以上前になると思う。こまつ座の歴史も長い。あのとき、こまつ座の芝居を見た個人的感想と今回の「私はだれでしょう」の個人的感想を比較すると、井上さんの劇作術がどれだけ飛躍し、進化しているのかがわかる気がする。複雑性を加味しつつ、単純明快さも際立つものになっている。しかも、配役へのこだわりも感じられて、出演している俳優のイメージとセリフのギャップも生み出し、まさに劇的な効果を発揮している。単純な正義は登場しない。真実であるということは、どれほど力強いかは、伝わってくる。いわば「あたらしい憲法のはなし」の論理である。虚構の力を使って、なんと、まあ、現実の歪みを抉りとっていることか。

 この芝居をNHKホールなんかで上演すると、その皮肉、ドラマ性は極限に達するであろうが、いかんせん、NHKホールは大きすぎる。NHK職員にたいしては、優待券を出してでも、見てもらうべきである。とはいえ、NHKの人たちを対象にした芝居では、もちろんない。あくまでも、われわれを戦争直後の時代へ連れてゆき、「尋ね人の時間」という番組を放送したNHKラジオを通して、戦後日本の姿、問題性をイメージ化している。

 井上ひさしが現代日本に放つ警告の声を聞こう! 心ある人たちの声を聞こう。みずからの言葉を磨き、なおかつ、他者の話を聞こう。詩人の小野十三郎さんは、革命は耳からやってくるというようなことをいっていたような気がする。人から聞いただけで、あやふやであるが。

 さて、この芝居は、観客にたいしても、あなたはだれでしょうという問いかけを用意しているのではないだろうか。私はだれでしょう、そして、あなたはだれでしょう。私は…。

 

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2007/02/03

妄想

 妄想。亡くなった女を想うと書いて「妄想」。漢字の世界では、亡くなった男を想う場合は考えられないらしい。孕ませる機械、射精する機械である男は、漢字の世界では優遇されている。漢字の世界では、女性への偏見、蔑視、不遇、虐待は厳然としてある。

 たとえば、婦人の「婦」。箒(ほうき)をもった女性を示す「婦」。掃除をしても、しなくても「婦」。掃除をする男は「婦」ではない。皿を洗う男も「婦」ではない。「夫」である。どうも帽子をかぶって、大の字になって寝転がっているような具合である。アドルノ先生(1903~1969)がこの現実を見たら、なんといっただろうか。日本社会には、風習となった女性差別・女性隔離は至るところにある。「アジア」的なのだろうか。

 孕ませる機械、射精する機械であるところの男の弱点は、数限りない。仲良くすることがなかなかできない、威張り散らす、大声でわめきたてる。他人の欠点をあげつらうことにも急である。もちろん、やさしい男、包容力のある男、理知的な男もいる。たとえは悪いかもしれないが、歩きたばこは男に多い。歩行喫煙は危険である。想像力が働かないのだろうか。想像力が働かないのは、自民党から出た孕ませる機械、射精する機械であるところの男大臣と同じである。

 小悪が積み重なって大悪を支えている。小さな幻想が大きな幻想を支えている。戦前のファシズムとのたたかいの教訓は生かされているだろうか。自民党、公明党を支持している人間が「産む機械」発言の男大臣をのさばらせている。投票結果を待って男大臣は辞任しようとしているのか。もし、そうであるならば、悪いと思っていないことの証明でもある。参議院選挙がたたかえないからと、男大臣に辞任を迫る自民党の人たちもいるが、理由が違うのではないか。税金をもらって飯をくっている男大臣が、お世辞にも言葉を扱えない、間違った考えを周囲に広める存在だとしたら、辞めてもらうのがいいのではないか。被害は甚大である。別の分野、税金を使わない仕事へ「再チャレンジ」してもらいたい。まじめな公務員が報われないだろう。

 男大臣には、日本妄想協会をつくって、会員同士で妄想するとか、内々でやってもらいたい。あっ、また、馬鹿なことを書きつけてしまった。このままでは男女男、嬲(なぶ)り者にされてしまうぞー。
 

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