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2007/01/28

ジャーナリストが堕落する道

 21世紀臨調に加わる「ジャーナリスト」というのは、本当に権力と対峙するジャーナリスト足り得るか。「彼ら」が新聞に書いた記事、発言等々を丁寧に検証することが必要だ。「メンバー」は主として重役クラスが多いだけに、直接的に「書く」というよりは、記者が書いてきた記事をチェックする側、はっきりいえば、潰す側に回る機会が多いと推察される。「情報欲しさのゆえに参加した」と言い訳をするかもしれないが、自民党政権に「助言」するような「機関」の「メンバー」になるのは、どうなのだろうか。もちろん、政治的立場を明確にすることは好ましい。政治的立場を隠して、中立公正の「顔」をすることの方がイカガワシイ。反権力こそがジャーナリストの魅力なのに、なぜ、エサに群がるのか。甘い蜜はおいしい? 誘惑はいろいろなところに潜む。
 世耕補佐官と夜な夜な「懇談」を重ねるジャーナリストも、逆に懐柔されていることは想像に難くない。虫を追い払う光に群がるのは悲しい。

 21世紀臨調のホームページに公表されている「メンバー」(2006年12月現在)は、財界人、学者で構成されている。リストのなかから新聞・雑誌・テレビのジャーナリストに限定して「抜粋」してみよう。「客員」も含む。くどいようだが、参加している人がすべて悪いわけではない。「まとも」な人もいる。しかし、このなかで自民党に迎合的な発言をしている人たち、憲法9条改悪に賛成の人の割合が多いとすれば、思い当たる節があるということになろう。

船橋洋一(ジャーナリスト)元朝日新聞※「メンバー」リストの上位に名前を挙げられている。以下は、あいうえお順に並んでいる。

安藤敏裕(日本経済新聞論説副主幹)
石川一郎(日本経済新聞編集局次長兼政治部長)
乾正人(産経新聞政治部次長)
岩田公雄(読売テレビ報道局解説委員長)
上村武志(読売新聞論説副委員長)
宇治敏彦(中日新聞専務取締役東京本社代表)
梅野修(共同通信政治部長)
老川祥一(読売新聞大阪本社社長)
大久保好男(読売新聞編集局次長)
小田尚(読売新聞政治部長)
金井辰樹(東京新聞政治部次長)
川戸惠子(TBS特別解説委員)
菊池哲郎(毎日新聞取締役経営企画担当)
岸井成格(毎日新聞特別編集委員)
北村経夫(産経新聞編集長)
木村伊量(朝日新聞ヨーロッパ総局長)
清原武彦(産経新聞会長)
倉重篤郎(毎日新聞大阪本社編集局次長)
黒岩祐治(フジテレビ解説委員・キャスター)
河野通和(中央公論新社取締役雑誌編集局長)
西川孝純(共同通信論説副委員長)
佐藤育男(東京新聞政治部長)
島脩(元読売新聞常務取締役編集局長)
清水孝幸(東京新聞論説委員)
菅沼堅吾(東京新聞論説委員)
關田伸雄(産経新聞政治部長)
芹川洋一(日本経済新聞大阪本社編集局長)
田畑正(テレビ朝日政治部長)
千野鏡子(産経新聞取締役正論・論説担当論説委員長)
飛田寿一(共同通信客員論説委員)
外山衆司(産経新聞取締役総括補佐・秘書室長)
中静敬一郎(産経新聞論説副委員長)
長坂嘉昭(プレジデント編集長)
長野和夫(産経新聞客員論説委員・東北文化学園大学教授)
西田睦美(日本経済新聞編集委員兼論説委員)
西村陽一(朝日新聞政治グループエディター)
根本清樹(朝日新聞編集委員)
橋本五郎(読売新聞特別編集委員)
林寛子(中日新聞一宮総局長)
早野透(朝日新聞コラムニスト)
広瀬道貞(テレビ朝日会長)
弘中喜通(読売新聞取締役メディア戦略局長)
船田宗男(フジテレビ報道局解説委員主幹)
星浩(朝日新聞編集委員)
丸山昌宏(毎日新聞政治部長)
持田周三(朝日新聞編集局長補佐)
八木柾(共同通信名古屋支社長)
矢内廣(ぴあ会長兼社長)
吉田文和(共同通信編集局ニュースセンター整理部長)
与良正男(毎日新聞論説委員)

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2007/01/23

犬神家の近代史(訂正版)

 日本の近代史と犬神家の一族は、軌を一にしている。まず、犬神佐兵衛の出自たるや放浪の孤児である。哀れに思った神官の庇護を受けるが、これは、天皇につながる神社の庇護を受けることに相当し、大げさにいえば犬神家は天皇とも通じる。「明治維新」によって、日本国民が「臣民」としてすべからく「天皇」と結び付けられたフィクショナルな存在となった歴史を見るならば、巧妙なアナロジー物語の構築といえるのである。江戸時代まで在日の民は少なくとも「臣民」ではなかっただろう。

 市川監督の映画で犬神佐兵衛は1866年に生まれ、1878年に野々宮大弐におそらく12歳で拾われ、1883年に17歳になったことになっている。1886年に犬神製薬工場を設立(なんと20歳!)し、1905年に工場を増築、1919年に53歳で中央政界進出、1935年に犬神製薬那須本社工場新築、1947年に81歳で死去となっている。

 しかし、横溝原作では、那須神社(モデルは横溝正史が結核の療養で長く滞在した上諏訪)の野々宮大弐が42歳のときに、犬神佐兵衛を17歳で拾ったことになっている。野々宮大弐は1911年に68歳で死去しているから1842年か43年生まれ、犬神佐兵衛は1868年か69年生まれと推定される。原作の方が「明治維新」の年に合わせている感じがする。
 映画の方の犬神佐兵衛は原作より2、3歳早く生まれたことになっている。これは意図的にそういう設定にしたようだ。

 原作でいくと犬神佐兵衛は1950年に死ぬことになる。大衆娯楽雑誌『キング』に横溝正史が「犬神家の一族」を連載したのが1950年から1951年にかけてだった事情によるところもあるのだろう。原作では珠世が生まれたのが明確に1924年で、事件の起こる年には26歳になっているので、やはり1950年ということになる。朝鮮戦争、逆コース、警察予備隊、保安隊、自衛隊の流れも感じられる年である。
 
 いずれにしても、犬神佐兵衛は、「明治維新」以来の歴史を背負っていることになる。そして、遺産相続のなかに含まれる男女の不平等という歴史も織り込まれているのである。戦後、竹田家など皇族がリストラされた歴史すら射程内に入ってくるようにも思える。物語でおどろおどろしいのは、犬神佐兵衛の遺言書が、事件を引き起こすような具合になっている点である。珠世が遺産の行方のカギをにぎる物語の筋、松子、竹子、梅子と全部腹違いの娘たちという設定、一夫一婦でないところにも、時代を感じさせる。 

 犬神家の歴史は、日清、日露、第1次世界大戦、日本の産業革命、製糸工場の発展、戦争のたびに太る成金ストーリーである。製糸工場というからには、戦後の没落も予想される。「犬神家の一族」は、箸にも棒にもかからない通俗的な物語かと思いきや、なかなかに、おもしろい時代背景をもっている。

 また、犬神財閥が製糸工場をもつことによって女工哀史であるところの「あゝ野麦峠」、佐清(すけきよ)が部隊を全滅させるビルマ(現ミャンマー)戦線は「ビルマの竪琴」にもかかわる時代性を有している。さらに、しつこいようだが、映画では日中アヘン戦争につながる歴史すら有している。政府・軍部とも犬神財閥はつながっていたことになる。金田一耕助は、この事実に気づきながら、事を荒立てようとはしない。

 映画では、佐武(原作の年齢28歳)、佐智(同27歳)が徴兵されたことがわからない。佐清と猿蔵だけが兵隊にとられたように見える。原作では佐武も内地で徴兵されたことがわかる。佐清は志願したのか、ビルマ戦線を指揮して、捕虜となっていたとあるので、BC級戦犯ということか。ともあれ、赤紙(召集令状)一枚で犬神財閥は大混乱に陥った。

 原作では「那須神社」に奉納された手型は「昭和十八年七月六日、犬神佐清、二十三歳、酉年の男」とある。1943年に23歳ということは、1920年生まれ。事件の起こる年には、まもなく30歳になるはずの29歳になっていた佐清であった。

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2007/01/20

映画「犬神家の一族」(改訂版)

 市川崑監督の映画「犬神家の一族」の新旧比較をしてみよう。

 比較をする前に、この映画の鑑賞の仕方として、だれでも気がつくことがある。前回の作品は1976年製作。今回は2006年製作。角川映画30周年ということと同時に、30年の「時間」を同じ監督の映画で見ることができる。さらに、役者の比較ができる。ご存じのとおり、石坂浩二、加藤武、大滝秀治の三氏の役どころは変わらない。役者の30年を残酷なまでに見せる。石坂浩二の太りようは、戦争直後の男の姿としては不自然である。ほかに、前回は竹子役だった三條美紀が今回は、松子の母、お園役で登場している。さらに、前回、梅子役の草笛光子が、今回は琴の師匠役で登場している。映画のパンフレットにあるとおりである。

 この30年間の日本の政治で気づくことは、日米ガイドライン、中曽根の「不沈空母」発言、自衛隊海外派兵、新ガイドライン、戦争法すなわち有事法制、教育基本法改悪、防衛省、さらに憲法改悪を公然と唱える首相の登場と、きな臭い動きが加速していることである。
 世相としても、バラバラ殺人などグロテスクな事件が起き、犬神家の一族も霞むほどだ。
 
 映画「犬神家の一族」で唯一評価できるのは、戦争というものが、人生をどのように無茶苦茶にするかが、少なくとも基本線として設定されていることだ。エロ・グロ・ナンセンスなシーンが多いものの、物語としては完成されているように思う。犬神財閥が、ケシで儲けていたことは、日中アヘン戦争への連想を呼び起こし(?)、岸信介が関与していたことも想起したりもする。

 佐清(すけきよ)の仮面よりも、狂ったように叫ぶ周囲の人間の顔のほうが怖い場面があるところが映像として面白いところ。新作は、松子と佐清という母子愛に焦点が当てられている。それを実際の親子の富司純子と尾上菊之助(五代目)が演じるところが最大の見せ場なのであろう。

 犬神家の一族の物語の舞台は、信州・那須市という架空のまち。ときは佐兵衛が亡くなる1947年2月から遺産相続争いが勃発し、佐清、静馬が復員してくる10月にかけてである。つまり、日本国憲法施行の年であったわけだ。大日本帝国憲法からの「改憲」を国民が体験する年、GHQが居座り、マッカーサーが「天皇」より上位に位置していた(いまでも米軍が居座っているが…)。「国破れて山河あり」と金田一耕助がつぶやくセリフ、戦争の間に時計が壊れてしまったと珠世が佐清(実は静馬)に時計の修理をせがむ場面も、「戦後」を示唆して、象徴的である。

 佐清は、自分の責任で、所属していた部隊がビルマ戦線で全滅したことを気に病む男である。静馬からも「いい奴だったよ」といわれる人間である。しかし、自らの「戦争責任」を痛感している訳ではない。なぜ自分が戦争に行かされたかを疑問に思わない。天皇からの支配に加えて「家」からの支配も、まだ残る時代。佐清だけを批判する訳にはいかない。戦後、宮城遥拝(皇居の方向へ礼をする)が、信州のまちでも残っていたという証言もあるから、天皇の戦争責任を糾弾する人々と、そうでない人々との違いもあった。財閥系の家柄ながら、佐清は徴兵される境遇だった。

  もう一つ、30年の時間を感じさせるのは、亡くなった俳優のこと。小沢栄太郎、高峰三枝子、三木のり平、小林昭二、岸田今日子(岸田国士の娘)、原泉(作家中野重治の妻)ら。チョイ役の横溝正史も。
 
 旧作で、抜群のセリフ回しを披露し、ハマリ役だったのは、松子役の高峰三枝子だと思う。俗世間と隔絶したかに見える犬神小帝国を差配しようとしている人間の、どちらかといえば不自然なセリフを、物語の流れを止めることなく緩急自在にこなしている。新作の松子役、富司純子も、ヤクザ映画「緋牡丹博徒」の緋牡丹お竜を彷彿とさせる演技を披露し、これはこれでヤクザ映画の「美学」を導入したかに見える。琴を弾く前の富司の一挙手一投足は、梨園の妻として鍛えられた動作である。市川監督は、ひそかに富司という役者に惚れていたのだろう。まあ、どうでもいいことなのだが。

 現在も活躍中で、今回は配役に加わることができなかったのは、あおい輝彦、坂口良子、島田陽子、地井武男、金田龍之介、三国連太郎、辻萬長、三谷昇、角川春樹らである。春樹の不参加は、角川家の一族の事情、および麻薬事件が絡んでいる。ちなみに角川春樹事務所によるカドカワ映画第1回作品である。

 この映画の狂言回し、つまり話を進めていく重要な役は、古館弁護士。前回は小沢栄太郎、今回は中村敦夫である。小沢栄太郎もハマリ役だったように思う。

 さて、映画のシーンだが、冒頭と最後は、誰が見ても明らかに違う。旧作がカラーで、新作が白黒から始まる。説明的な映像は、新作で極力省かれている。旧作では犬神財閥の成り上がりぶりを紹介する歴史写真に、市川崑監督の顔と三国連太郎の顔がはめ込まれてあって笑えるのだが、新作は、『犬神佐兵衛翁伝』という本の扉絵として仲代達矢の顔が出てくるくらいだろうか。

 金田一耕助登場の場面は、背後の通行人の流れ、CGで加工した街並みの映像など、新作と旧作とでは微妙に違うが、当然のことだろう。旧作では、小沢栄太郎演じる古館弁護士が、金田一の姿を見て、不審に思う顔の場面が一瞬、挿入されている。これは加藤武演じる警察署長が金田一を不審に思う旧作と、不審にあまり思う様子が描かれない新作の違いに通じる。映画の編集とは何かを勉強する人には、新旧比較は面白いと思う。

 旅館の女中、はるさんが下駄箱からスリッパを取り出すシーンで、十番の棚から取り出すのが旧作、十一番の棚から取り出すのが新作である。新作で、はるさんが、金田一から頼まれ事をする場面が出てくるが、これは旧作にはない場面で、旧作では、いきなり大学でたばこの吸い殻を鑑定してもらって帰ってくるはるさんの場面になる。

 そして、珠世がボートで溺れそうになる場面でずぶ濡れになるのが島田陽子で、あまり濡れないのが松嶋菜々子である。所属事務所がOKといわなかったからか、どうかわからないが、松嶋の演技は万事控え目である。珠世役は、どちかといえば「眼」の演技が要求される役なので、ずぶ濡れになろうが、なるまいが、これまた、どうってことないことなのだが…。

 旧作では、ふすまが自然に倒れたといって小林昭二が現れ、草笛光子を震え上がらせる「肩透かし」の場面があるが、新作ではなくなっている。ふすまという小道具を生かした場面は、ほかに、金田一の泊まる部屋から出ていくはるさんが、ふすまにひっかかった前掛けのすそをスルッと抜き取る場面が新旧とも共通である。また、旧作の川口晶、新作の奥菜恵が、竹子役の人に突き飛ばされて、ふすまにあたってコケるのは同じである。新旧のコケ方の違いも鑑賞に値する。

 物語の途中で金田一耕助が「那須駅」に立ち寄る場面が新作にあるが、旧作では最後に「那須駅」が登場する。蒸気機関車の音は、新作も旧作も同じようだ。

 佐清を演じる尾上菊之助(五代目)は、動きが歌舞伎で鍛えられているだけあって、無駄がない。歩き方が、歌舞伎役者の歩き方になっているところが少しある。新作で佐清は菊に近づいて見ていて、立ちあがって珠世に一言のべるが、旧作で、あおい輝彦は菊を離れて見ていて、一言もいわずに立ち去る。佐清の仮面をつくる場面も、旧作では丁寧に描かれていたが、新作では省略された。

 旧作にあった長い廊下のシーンなんかは、好きだったのだが、新作ではあまり出てこない。大熱演は、松坂慶子で、犬神竹子役を楽しそうに演じ、佐武が殺されて半狂乱となり、ふとんを被せられておさえつけられるシーンは、映画館でも笑いがおきた。
 旧作では犬神佐智役の川口恒がギラギラとあやしい目をしていて、役になりきっていたが、新作では池内万作が金持ちの坊ちゃん風に演じている。犬神家の一族の映画に登場する俳優さんは、いわゆる二世タレント的な人が数多く登場していて、その意味でも「血」をめぐる映画であることが暗示されているように思う。

 静馬の両足が、湖から突き出た有名なシーンは、新旧共通であるが、市川崑監督に心酔する岩井俊二監督の映画「市川崑物語」に、さて、どちらでしょうみたいなクイズが出てくるので、同じ場面だが微妙に違うということなのだろう。

 本ブログで当初、「ラストシーンだけは、新作と旧作の比較をみずから行う人のために、紹介しないでおこう。」と書いたが、やはり触れておきたい。新作では、金田一耕助を演じる石坂浩二が、那須駅への途中、後ろを振り返り、カメラ目線で笑みを浮かべながら会釈する場面で終わる。どこか、演技をとおりこして、石坂浩二本人があいさつしている風情になっている。遺産相続争いのドロドロした物語空間から脱却するために浄化する役割を担っているかのようである。

 そして、一本道をひたすら歩いて「完」となる。チャップリン(新聞の用字用語ではチャプリンだったりするのだが)の映画「モダンタイムス」の場合は、ポーレット・ゴダートと男女2人で夜明けの一本道を歩いていくのだが、市川監督は、最後の作品で、金田一耕助を演じる石坂浩二1人に一本道を歩かせた。おそらく、市川監督は、この映画が自身最後の作品になることを予感していたのではないか。それにしても、実験精神の旺盛な監督である。

 市川監督の最晩年の姿は、新作に那須ホテル主人役で登場する三谷幸喜監督の映画「マジック・アワー」で、監督本人役として見ることができる。三谷はビリー・ワイルダー監督の大ファンなので、ワイルダー監督の映画「サンセット大通り」にセシル・B・デミル監督が本人役で出ているなどの趣向に習った映画ファンサービス、遊びである。オマージュか。映画監督が他の映画監督の映画に俳優として出演するのは、ワイルダー監督に限らず、結構あるので、それだけを特集しても、面白かろう。

 余談だが、松子、竹子、梅子という安易なネーミングに、父親である犬神佐兵衛の愛情の薄さが現れている。一方で、もし、自分が映画監督なら、それぞれに誰を配役するかを想像する楽しみもある。犬神家の一族は、結局のところ、犬神松子の物語である。男尊女卑の日本型社会は、変わっただろうか。

 新作は旧作より上映時間が10分短いにもかかわらず、間延びした感が否めない。しかし、市川崑監督による場面の構成、俳優への光の当て方、ライティングは見事である。

上映時間は旧作147分→新作134分
音楽 大野雄二。新作で谷川賢作(谷川俊太郎の息子)

76年版配役と06年版配役の比較   
金田一耕助(石坂浩二)→同
犬神松子(高峰三枝子)→富司純子
犬神竹子(三条美紀)→松坂慶子
犬神梅子(草笛光子)→萬田久子
犬神佐清・青沼静馬(あおい輝彦)→尾上菊之助(五代目)
犬神佐武(地井武男)→葛山信吾
犬神小夜子(川口晶)→奥菜恵
犬神佐智(川口恒)→池内万作(伊丹十三の息子)
犬神寅之助(金田龍之介)→岸部一徳
犬神幸吉(小林昭二)→螢雪次朗
野々宮珠世(島田陽子)→松嶋菜々子
那須ホテルの女中はる(坂口良子)→深田恭子
古館恭三弁護士(小沢栄太郎)→中村敦夫
橘警察署長(加藤武)→等々力署長(同)
大山神官(大滝秀治)→同
猿蔵(寺田稔)→永澤俊矢
青沼菊乃(大関優子)→松本美奈子
柏屋の亭主・久平(三木のり平)→林家木久蔵
那須ホテルの主人(横溝正史)→三谷幸喜
渡辺刑事(角川春樹)
琴の師匠(岸田今日子)→草笛光子
藤崎鑑識課員(三谷昇)→石倉三郎
井上刑事(辻萬長)→仙波刑事(尾藤イサオ)
若林(西尾啓)→嶋田豪
老婆お園(原泉)→三條美紀
柏屋の女房(沼田カズ子)→中村玉緒
仮面師(岡本健一・照明)→配役なし
主治医(守田比呂也)→野村信次
警察医(細井利雄)→配役なし
犬神奉公会の人(北島和男)→配役なし
野々宮大弐(那須清)→配役なし
野々宮晴世(仁科鳩美)→配役なし
松子の少女時代(勝山美香子)→富司純子
警察官(宮本茂)→清末裕之、松田正悟
佐兵衛の若い頃(阿部義男)→配役なし
犬神佐兵衛(三国連太郎)→仲代達矢

06年版の配役で76年版が誰なのか?
岬の巡査(木本秀一)→?
岬の子ども(石田直也)→?
女中(蓮佛美沙子)→?
赤ん坊(星春希)→?
参謀(保木本竜也)…新作に登場する写真の中で、工場視察で犬神佐兵衛と並んで写る役柄。旧作にも犬神佐兵衛と並んで写る参謀の写真は登場するのだが、キャストとして認知されていない。

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2007/01/07

飛躍ということ

 昨年末に火傷した指先の皮がベロベロと向けてきた。ようやく指の感触が戻りつつある。火傷した場合、痛い方が回復の見込みがある。これは、医療関係者では常識らしい。大したことのない火傷で大騒ぎして、傷心気味である。ひどい火傷は、痛い感覚すらなくなるという。回復可能か、回復不可能か。子ども時代から、友達の火傷の痕を見たりしてきて、火傷にたいしては、必要以上に恐怖がある。

 昔は、火傷をした子どもが多かった。熱湯とか、アイロンとか、あるいは、暖房器具が、練炭だったり、豆炭だったり。魔法瓶や湯たんぽを使うときに、熱湯を注いだりして、危ない瞬間があった。調理器具も、京都の古い家には、残っているが、薪を使うタイプのもの、竈があった。風呂も薪で焚いた。火傷をする条件はそろっていた。親は子どもに目配りできていなかった。忙しくてできなかった。兄弟が多くて、手が回らないということもあっただろう。

 今は、火に接することは少ない。たばこの火が一番危ないくらいになってきた。歩行喫煙は、本当にやめてほしい。たばこを吸わない家では、マッチというものがほとんど必要ない。誕生日のケーキに蝋燭を灯すときに必要かなあと思ったりするぐらいになってきた。文明としては、火を使うことが人間社会の進歩に飛躍をもたらしたはず。その火が、オール電化なんていう状況になると、目にしなくなってくる。ひょっとすると、これから火を間近で見たことがない子どもがでてくるかもしれない。歴史的変化としては大きいかもしれない。火をきちんとコントロールできる社会になってきたのだろうか。これを飛躍といえるか。

 しかし、オール電化というのも、頼りない。電気が止まれば、それまで。漏電というのもある。電線が切れたら不便。ブログも書くことはできない。ガス会社が、CMに注意を注ぐのは、オール電化への対抗意識だが、火を使って煮炊きすることは、キャンプか、なんかで体験しておいた方がいいのかもしれない。

 結局、キャンプファイアーの火から先へ進むことはできているのだろうか。少なくとも、火傷をしにくい社会になってきたようには思うが。

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2007/01/01

「日経」33面

 朝魚さんのブログ「My Last Fight」を読むと、「アドルノ先生」(1903~1969)がでてきたので、少したまげました。知的食欲の旺盛な作家、朝魚さんには、ほんとうに感心します。今年も応援しますよ~。
 新年から、坊っちゃんが清に感謝しているような温かい気持ちになりました(意味不明)。そうそう、あの清は、坊っちゃんの母だという説を昨年、丸谷才一氏が開陳していましたが、その説の反響やいかに。アドルノ先生にも、両親への手紙が残っていて、これはまだ翻訳されていません。アドルノ先生の「文学ノート」も翻訳はまだ一部で、全訳は出ていません。

 文学話のついでに。元日付の「日経」33面で、「村上春樹だけじゃない 『世界市場』に文芸が挑む」の特集記事を載せている。市場経済の側から文学をとらえるとどうなるかがわかる好企画。この間の商業的文学動向への目配りも良い。しかし、ほんとうに文学とは、こんなふうにとらえていいものだろうかと強い疑問を抱く。
 森敦さんとか、水上勉さんとか、小島信夫さんとか、人生を文学に捧げた人の魅力には負けるように思う。翻訳不可能といわれる文学が、いかに世界へ突き抜けてゆくか。この難しさへの挑戦の方が、おもしろいように思うけれど。

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元日付各紙を読む2007

 今年の各紙のキーワードは、「団塊の世代」である。なにかにつけ、特集を組み、ダンカイ、ダンカイとかまびすしい。会社を退職した方々には、「言論の自由」を取り戻していただくことを切に望みたい。そして、今の政治に「否」をつきつけていただきたい。

 まずは元日付社説から。

読売新聞 「タブーなき安全保障論議を 集団的自衛権『行使』を決断せよ」
毎日新聞 「07年もっと前へ 『世界一』を増やそう 挑戦に必要な暮らしの安全」
朝日新聞 「戦後ニッポンを侮るな 憲法60年の年明けに」
日経新聞 「開放なくして成長なし① 懐深く志高いグローバル国家に」
産経新聞 「凛とした日本人忘れまい 家族の絆の大切さ再認識を」

 「読売」は、米国の核の傘に依存するしかないとして、非核三原則の「持ち込ませず」について議論しなおしてもいいだろうと主張する。そして、例の、核論議を封印するな、との意見を繰り返す。安全保障の前提は財政基盤であり、そのためにも消費税増税をせよ、という。
 敵基地攻撃能力の保有も議論すべきだという。

 これほど、アメリカの外交まかせを公言し、はっきりと消費税増税の目的に、いわゆる軍事を掲げるのは、戦争愛好者として、誠に正直というべきか。自民党の主張と変わらないことを今年も確認できた。
 核を「持ち込ませず」については、すでにアメリカの核が日本に持ち込まれている現状を考えれば、欺瞞もいいところである。読売の社説子は、不破哲三著「日米核密約」を読むべし。

 「産経」は、家族こそ国づくりの基盤と、戦前の復古調である。教育基本法改正に少し機嫌を良くしている、そんな感じの「年頭の主張」である。靖国神社の臭いがプンプンしている。タイムスリップしてきたような文章を書けるのは、なぜだろうか。

 「朝日」は、今年の社説で珍しく日本国憲法擁護を前面に掲げてきた。おやおや、「朝日」はそんなに教育基本法改正に反対していたかなあ、護憲を掲げていたかなあ、と不審に思うが、見守ってみよう。安倍首相が改憲をめざしている段階で、これを阻止する動きは少しでも応援したいからだ。5月に「朝日」は、日本のとるべき針路を提言するらしい。九条の会をもっと応援してほしいものだ。

 「毎日」は、12面で自民党の舛添要一と民主党の枝野幸男が「改憲論議 節目の年」と題して対談している。ひどい企画である。自民党の改憲草案を書いたのが舛添。枝野は、改憲を主張するタカ派中のタカ派であることは知る人ぞ知るである。同じような人間を二人並べて対談させるとは、提灯持ちもいいところである。社説は、インパクトもなく、しょうもないので、読むに値しない。「毎日」読者なので、点数はきわめて辛くなるのだ。

 「日経」は、新渡戸稲造大好き人間が、社説を書いた。日本も海外から投資してもらえるような国、もうけ口を海外に開放するような国になれ、というのが趣旨のようだ。産業構造も含めた対米追随を不問に付して、何がグローバルだろうか。根本問題に目を塞ぐ議論が、いかに役に立たないかの見本のような社説である。
 

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あけまして

 あけまして、おめでとうございます。

 昨年、餅搗きで指5本に火傷を負い、傷心気味。餅があんなに恐ろしいものとは。慣れないことをするときは、先輩に学ぶべし。パソコンも指一本で。情けないね。センチメンタリズムとの決別を!

 さあ、新聞を買いに行かないとね。新年号は読まないと。あまり期待はできないのだけれども。

 

 

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