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2006/12/23

小島信夫さんの「お別れ会」

 12月11日だったか、東京会館でおこなわれた小島信夫さんの「お別れ会」に行った。参加者は、三浦朱門さん、保坂和志さん、古井由吉さん、近藤耕人さん、いしいしんじさん、森富子さん、千石英世さんたちだった。(有名な人たちがたくさん来ていましたが、思い出したら、名前を追加します)

 小島信夫さんは、明治大学の教授時代、英語の入試問題で、よく考えられた出題をしたという話も紹介された。受験界でも評価されていたという。小島信夫全集が編集されるならば、ぜひとも、明治大学の英語入試問題も加えてほしいものだ。

 小島さんの文学が好きな人たち、小島さんのことを好きだった人たちの気持ちが伝わってくる、すばらしい「お別れ会」だった。いまだに、そのすばらしさを整理して書くことができないでいる。もう少し考えつづけたい。

 小島信夫さんの「小銃」「抱擁家族」は、文学好きな人におすすめしたい大傑作で、おすすめしなくても読まれている小説で、もし読んでいないとしたらぜひとも読んだ方がいいのではないかという小説だ。

 アドルノ的筆者は、大江健三郎ファンなのだが、小島信夫さんの小説に強烈に惹きつけられてもいる。大江さんと小島さんとでは、「憂い顔の…」なんて題名が似ている小説があるのだ。大江さんは、小島さんの「島」という作品を評価していたことがある。江藤淳さんも、小島文学を評論しつづけた。江藤淳をもってしても、小島文学は解明されている印象を与えない。これは何を意味するのか。

 小島さんの小説は、鈍器で殴られるような印象(この表現は、大江さんが小島さんにいったらしい言葉)を与える。少しキューブリックの映画に似ていると思う。不思議な描写の積み重ねのなかに、とんでもないメッセージが隠されていたりする。キューブリック監督は、映画制作にかなりの時間を投入しているが、四六時中映画を考えているような監督だったのではないかと勝手に想像している。映画愛とでもいうのか。小島さんも四六時中小説のことを考えているような作家だったらしい。そのことは、小島さん自身もユーモアを交えて自認していた。森富子さんが、「しんぶん赤旗」で紹介していたように、「小説愛」の人だった。

 最後の作品「残光」も、とても91歳の作家のものとは思われない。森敦さんを惹きつけ、江藤淳さんを惹きつけた男。文学好きに愛され、みずからも小説愛のかたまりだった男。全体像は、まだ見えない。

 

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2006/12/21

アドルノで検索して訪問される方へ

 アドルノ先生(1903~1969)の名前を冠したブログなので、アドルノというキーワードで訪問される方がいらっしゃいます。本ブログ筆者は、カタツムリ的スピードでアドルノ先生の本を読んでいる(眺めている)ので、たまにしか、アドルノ先生のことには触れません。というか、まともにアドルノ先生のことを論じたことがありません。おそらく、そんなに論じることはないでしょう。あらかじめお断りしておきます。
 
 最近、書店などで、アドルノ先生の翻訳本が若干増えたのは、2003年のアドルノ先生の生誕百年の余波によるもの、および、ファシズム的なものが復活を遂げつつある状況、あるいは、関西にいらっしゃるアドルノ研究者、哲学研究者の方の努力のたまものといってよいでしょう。あるいは、大江健三郎→サイード→アドルノへと遡ってこられる方もいるのではないかと思います。その昔、吉田秀和先生も、アドルノの本を訳されていたことがあり、音楽評論でも見逃せない存在です。音楽愛好家のあいだでは、アルバン・ベルク→アドルノという関心のもたれ方をされるでしょう。また、1968年への関心をお持ちの方も、フランクフルト学派→アドルノ、学生反乱→アドルノという経路で接近される方もいらっしゃるでしょう。もっとも、アドルノ先生は、社会学の講義中に、裸の女子学生に妨害された経験をお持ちです。1903年9月11日生まれという経歴も、9・11との符合めいたものとなって、オカルト的に関心をもたれたかもしれません。あまり考えられないことですが。

 一番ポピュラーなのは、ベンヤミン→アドルノ関係でしょう。ひところのベンヤミンに関する翻訳の隆盛、パサージュ論への関心の高まりは、記憶に新しいところです。

 さらに、トーマス・マン『ファウスト博士』へのアドルノ先生の執筆協力も見逃せないところです。ナチス・ドイツを逃れるため、アメリカへ亡命したアドルノ先生は、アメリカ滞在中に、マンと交遊をふかめます。チャップリンとアドルノ先生との交遊も視野に入れてよいでしょう。アドルノ先生は、ハンナ・アーレントに嫌われていたことも有名です。

 音楽と映画、文学と美学と政治、社会に関心をもつ場合、アドルノ先生に学ぶべきことは多いでしょう。日本には、あまりいないタイプの哲学者、美学者であるため、もっと研究されてよいと思います。アドルノ先生のご存命中に実際に会われた日本の学者の方もいらっしゃるので、そんなに遠い存在という感じがしないのも、素人的にはうれしいことです。アドルノ先生に関心をもつ学者は、なぜか関西に多い傾向があります。師匠→弟子という関係がなせる技かもしれませんが、関西には関西なりに、東京の学者の視野に入らない学者を掬いとる余裕があるのでしょう。ドイツでは、いまだにアドルノ先生の本の出版がつづいています。息の長いこと、この上なしです。学問研究とは、このようにありたいものです。

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2006/12/20

狂った世界論の陥穽

 なにやら、一人ボケ、一人ツッコミの素人芸になりつつありますが、狂った世界論の弱点をのべておこうと思います。
 一番の弱点は、右翼も、狂った世界論で、もろもろの民を右翼団体へ勧誘している事実です。雨宮処凛さんが右翼団体に入ったときの動機が、狂った世界論なのです。物欲の世界、物質文明に嫌気がさしているでしょうと語りかけ、ふんふんといっている内に、右翼的精神の世界へと誘うのです。右翼団体の資金源やアメリカへの無批判な態度を棚上げにした、なかなか巧妙な手口ではありませんか。ただし、雨宮さんが日本国憲法前文に感動してしまったために、あっさりと狂った世界論の迷宮から抜け出ることができたのは、皮肉です。

 世の中が狂っているだけに、それを狂っていると指摘するだけで、何やら真実をのべているらしいと相手に錯覚させることができるのが、狂った世界論です。そもそも世界は狂っていると指摘する人物自身が、狂っていたらどうなるか。二重の狂いが生じ、何も指摘していないに等しい結果となります。

 右翼的世界は、日の丸・君が代、靖国神社、天皇・皇后、皇太子、八紘一宇と、わかりやすい道具立てがそろっています。目の前にあれば「真実」と錯覚する素朴な実在論と申しましょうか。可視化された世界とでもいいましょうか。それらに囲まれていれば、狂っていると思わなくなる。石原都政が、教員に日の丸・君が代を強制してはばからないのも、管理統制がしやすいからです。気に入らない人物を炙り出す道具として日の丸・君が代を活用できる。支配者は、反抗する人物を嫌います。ただし、古代ローマ帝国のカエサルは、違ったようでありますが…。

 話は飛びますが、三島由紀夫が狂っていった過程というものも、だらけきった保守への嫌悪だったように思います。自民党政治に本当にコミットしていれば、三島は、あのような「1970年の乱」をおこすことなく、石原慎太郎のように自民党政治家としての経験をもったでしょう。三島の行動には、自らの思うようにならない世界、コントロール不能の政治への苛立ちを看取することができます。逆立ちした資本主義批判の姿といえましょうか。封建的なるがゆえに、資本主義のおかしさを指摘できる。日本史のなかにも、そのような振る舞いをした人物を確認することができます。

 狂った世界から抜け出る方法、その一つは、日本国憲法の再確認でしょう。教育基本法を「改正」した側が正しいのか、教育基本法を改正しなくても良いといった側が正しいのか。右翼団体を抜け出すことができた雨宮さんは、日本の外、アジアへ出かけていって、右翼的発言してみればいいといっています。アジアの人々から批判され、仲良くすることすらできない現実に直面したと体験的に語っています。

 もう一つは、資本主義のからくりをつかむことでしょう。頭が痛くなるとか、マルクスは死んだとか、生きたとか言う前に、『資本論』の明快さに学ぶべきでしょう。マルクスが狂っていたか、それともマルクスは間違いだという人物が狂っていたのか。地球環境の現状を見てみれば、確認することは、意外にたやすいように思うのですが。

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2006/12/17

狂った世界

 狂った世界論を皆様に開陳するにあたり、いくつかの前置きをしたいと思います(拍手)。まず第一に、カネが万能だと思いこむこと、これが世界を狂わせていく根源にあることは、最低限おさえておきたいと思います。なんだ、そんなことかとガッカリされる方もおられるでしょう。除夜の鐘が間近に迫っている状況で、借金の取り立てに脅える人々に、説得力ある説明、耳を貸してもらえる説明をすることは、なかなか困難であります。ナニワ金融道の作者の偉大な点は、みずから経済生活の辛酸をなめた上で、その地点から出発して、カネ万能の人間社会を問うたことです。同じ目線から出発すること、これが耳を貸してもらえる前提です。

 人間は変わることができるという理想にあくまで立脚した上でのことですが、カネを積まれても命令に従わない人間が増えていくことは、喜ばしいことなのです。公務員の仕事には、とくに、カネの命令に従わない、カネとは無縁の人々が就くことが従来、前提とされていました。警察官、消防署員がカネで動くようになったらおしまいであります。しかし、郵便局を襲撃する警察官も現れるようになったのは、時代を象徴しています。イラク派兵では、お金を上乗せされた「公務員」の方々がいました。本来、あのようなことは、公務員の仕事としては、あってはならないことです。お金をちらつかされたからといって、特定の人物に便宜を図ってはいけないことは、公務員の仕事の内容すべてにかかってきます。知事が逮捕される事件も、カネ万能に染まる人間が増えていることの証明でもあります。彼らは、公務員の何たるかについて、考えたことがないようです。
 
 実は、人々の注目を引かない、むしろ悪罵の対象にされることの多い公務員の仕事のなかには、将来の社会の萌芽が含まれているといっても良いのであります。カネ万能でない社会においては、すべての仕事が公務員的になるといっても良いのではないでしょうか。すべての人が衣食住が満たされる社会になれば、あくせくして働く必要がなくなってくる。むしろ、文化的な生活を享受する人々が増えていくでしょう。時間をシェアする、つまり、お互いの時間を融通しあうことによって、助け合う社会になっていくことが予想されます。あくまでも予想ですが。北海道のべてるの家における実践活動にも、資本主義の枠内における困難さがあることを承知の上で、将来社会の解決口が隠されているようです。お互いの助け合いなかに、人間性の回復はあるのではないでしょうか。ところが、歳末助け合い、なるものに象徴されるように、助け合いは、呼びかけられるもの、時期的なものに歪曲されてきている。すでに捻じ曲げられているといっても過言ではないでしょう。ましてや、日本国家が、国民を助ける方向に動いていないことは、医療・福祉に歴然としています。「福祉の党」などと大言壮語をした政党が政権に参加して、どんなに生活が苦しくなったか。

 資本主義社会においては、公務員の仕事が、切り売りされ、民間へ、民間へと切り縮められていく様を至るところに見ることができます。国鉄からJRへ、郵政公社しかりであります。アメリカの外資の要求にもとずいて、彼らに儲け口を提供してあげる「公務員」というのは、犯罪者以外の何者でもない。善人なおもて往生とぐ、いわんや悪人をや。善人ずらをして、悪事をなす人々の群れを目の当たりにして、絶望する人間が出てきてもおかしくない状況があります。しかし、絶望してはならないのであります。

 公務員的な仕事、公共的な考え方を軽蔑していくと、国の命令にも従わない人間も増えていくことが予想されるからであります。もう少し過激化すると、自分たちで共同体をつくるミニ・ユートピア的な運動、あるいは、駆け込み寺的なシェルターがこれから増えてくるでありましょう。日本国からの独立運動すら起こるかもしれない。そのとき、「自衛隊」が軍隊として独立運動を弾圧するでありましょう。拘置所や刑務所がシェルターになるかもしれない。ビラを配っただけで弾圧される社会の異常さは、強調しすぎても、しすぎることはないのであります。

 NHK受信料の不払いの増加も、背景には、国の政治への不信があるのです。国は、払う人を増やせといっている訳でありますが、国やNHKの命令に従わない人間を増やしていく。自民党政権からNHKへの放送命令後、明らかに拉致問題の報道が増えています。NHKの経営を握っているのが、国会であり、その多数を占めているのが自民党だからでありますが、そういうことがさらにNHK、自民党への不信を強めていきます。会社的なものにも従わない人間も増えている訳であります。右翼のみなさんは、国を守れ、守れという訳でありますが、従わない人も増えていく。守るべき国があるか、ということになって参ります。愛すべき国はあるのか、ということです。教育基本法の「改悪」は、強制的に国を愛するように仕向けることにありますが、逆に、学校嫌い、国嫌いの人を増やしていくでしょう。教育の力が、逆に発揮されるやもしれません。もちろん、異常な方向に進む訳ですが、狂った世界を学習する機会が増えるでしょう。戦前の軍国主義教育においてすら、完全なファシストを育成できなかった。そのことに一縷の希望があるのであります。(パラパラとした拍手)

 

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2006/12/16

良い映画とは

 武士の一分、プラダを着た悪魔、007カジノロワイヤル、麦の穂をゆらす風…。われながら、映画を見る眼は全然ない。しかし、麦の穂をゆらす風は、最近見た映画のなかでは抜群によかった。アイルランドの歴史は、世界史を圧縮したような趣がある。戦争について考えている人は、見た方がいいよ。観客にしっかり考えさせてくれる。テーマは、まったく妥協なし。歴史的な映画をつくらせたら、イギリス人ですね。ただし、主人公の仲間の葬儀の場面で、遺体の腹が少し波打つところが、演技、演技していて、興醒め感も否めない。ケン・ローチ監督は偉くなりすぎている面があって、周囲の人がちょっとしたミスを指摘してくれないのかもしれない。偉い映画監督の作品には、意外と「穴」が開いている。でも、おすすめの映画であることは間違いない。「映画は娯楽」論の人には、つらいかも。

 武士の一分は、さすがにお涙頂戴の部分へもっていくところがウマイ。脇役が最高。木村拓哉、少し笑いすぎ。泣かせるところは、松竹映画の伝統をしっかり継承盃というところ。桃井さんのおしゃべりも、見終わって数日後も忘れがたい。笹野さんが、これまでの「山田組」の出演作品のなかで一番良い役。いままでも、さりげない執事役をしっかり演じてきた人。観客は見ていますよー。さてさて、山田洋次監督は、この藤沢周平三部作の後、何をつくるのか。原点回帰で、ぜひ、「家族」「故郷」(?)路線のものも撮ってほしい。2007年の日本は、大変なことになるからね。

 プラダを着た悪魔も、予想していたよりは、悪くない。が、予想どおりのハッピーストーリー。でも、そういう映画を見たい人には、いいでしょう。漫画みたいな映画か。メリル・ストリープは、怖い役をやらせるとウマイねえ。次回作も見たいと思わせる演技。テンポの良い映画は、見ていて気持ちがいい。リズムのある文章を読むに等しい。観客が見たいものをしっかり知っている監督ですね。資本主義とファッションとの関係を考察するには、参考になる映画かも。これで卒業論文を書くような人が現れるとおもしろいのだが。

 007カジノロワイヤルは、予想していたよりは、ガッカリした。どこかで見たことがあるようなシーンが多い。とくに、ボンドが恋人と死に別れることが、途中でわかってしまう。幸せすぎるシーンが長く続くと、観客は、逆に不安になる。コアなファンが多いので、辛口の批評が多いのでは。MI:3に負けている感じがする。国際政治が今回は、あまり絡んでいないなあ。ゴルゴ13に学ぶべし。ハリウッドでは、良いシナリオライターが育っていない。ソニーが絡む映画は、受けを狙いすぎていて、大味。悪人がソニーのパソコンを使っているのも、良いイメージではない。

 ダメな映画を見てばかりなので、良い映画がわからなくなってしまった。ウッディ・アレンの映画「マッチ・ポイント」の倫理的荒廃ぶりたるや、いかんともしがたい。おすぎさんが全否定していたのが、最近、わかる。見た当初は、スカーレット・ヨハンソンにだまされて、見てしまうが、運の良い奴の残酷さ、人を殺しておいて、ノウノウと生きてゆく主人公を見せつけられて、なんのために、イギリスで撮影したのかわからない。てっきり、ウッディ・アレンがブッシュ批判でアメリカを離れたのかと勘違いしてしまう。もちろん、運命はどう転ぶかわからないという皮肉は効いているし、観客が主人公にたいして批判的感情を抱くように計算されているともいえよう。しかし、倫理的側面が幽霊による批判によって担保されている映画というのは、子どもだましではないだろうか。ウッディ・アレンの映画にはよくお化けが出てくるというが、芥川賞の選評よろしくいわせてもらうと、お化けが安易にでてくるのは、いかがなものか、である。

 スタンリー・キューブリック監督が生きていたら、と思う。視覚的効果とセリフの中身とのミスマッチというか、おもちゃ箱をひっくり返したみたいな意外性というか、観客に次を予想させない。確かに一度、見てしまえば、記憶してしまうから、新鮮さは薄れるけれど、最初に見たときの新鮮さは残る。キューブリックの後を継ぐような人が現れないのはなぜか。キューブリックには、この世界を狂った世界ととらえるところがあったように思う。どこから、そういう結論を引き出したかは不明だが、狂った世界を、狂っていると観客にわからせるように伝えるのは、これまた、意外に難しい。観客もまた、狂った世界の住人であるからだ。どう違和を伝えていくか。たとえば、教育基本法「改正」なんていう、自民党・公明党の狂いよう、それを支持する人たちの狂えるさまを、わかってもらうのも、生半可ではない。日本の電車の乗客の顔は、驚くほど暗い。どこか、死刑台へ向かう囚人の顔を思わせる。でも、囚人らしい顔って、映画でしか見たことがないよ。それだけ、映画は、見る者のステレオタイプなイメージづくりに与える影響も大きい。
 
 狂っている世界を伝えることは難しい。キューブリックは、常に醒めた眼で見ているから、狂った世界をとらえることができたのか。それとも、人間の内面を凝視したから、狂った世界を描くことができたのか。凝りすぎた映画でツマランという人もいるかも。すくなくとも、キューブリックの映画は、「私=個人」の問題から出発している。一場面、一場面がしっかりつくられているのも、そのためだ。不条理の連鎖みたいなものをつかまえようとしている。カフカ的世界? 現在から現在で押していって、問題を含みこんでいこうとする。他者の問題も。それにしても、変な映画ばかりつくっているなあ、キューブリック。良い映画と推奨できるか自信がない。

 後は、周防監督に期待するしかないなあ。正月映画をまつしかないとは、とほほ。

 

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