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2006/06/27

バラバラとゴツゴツ

 支配する側の極意は、ローマ帝国の昔から、「分割して統治せよ」である。派遣労働者や出向、分社化、別会社化、下請化、とにかく、労働者を分断し、切り離し、知らない一人ひとりの人間にする。その人を知らないということは、他人である要件を満たすが、同情の念すら湧き起こらないようにする「他人」化は、資本主義のもとでの支配者にとっては、まことに都合がよい。部品としての他人。部品としての人間。部品としてあるかぎり、部品と部品が組み立てられても、バラバラにされるという具合。他人であるということは、支配されやすい、といえるか。

 知っている人が、ひどい目にあっている場合、少なくとも、なんらかの行動にでる人は、いまも多いだろう。知っているということ、すなわち、身近、自分にもかかわりがある、いつかは、自分もヒドイ目にあうという連想が働いて、動かす。自分の身の上にふりかかったときに、人間は残念ながら目覚める。ヒドイ目にあわない段階で、動き出す人はまことに少ない。たとえば、住民税の増税。あれだけ、総選挙で、とんでもないことが計画されていると訴えても、ヒドイ目にあうと予想もできず、他人の訴えだからと馬耳東風。つまり、身近な知っている人の訴えにはなっていなかったわけだ。
 
 では、聞く人々、読む人々と言い換えてもよいが、身近に感じて、考えてもらえる仕掛けを、訴える側、書く側は、十分に考えているだろうか。ここが難しいところなのだ。ゴツゴツした文章でもいいから、身近な人が書いている、訴えるというような実質を、中身を、備えた文章、訴え、呼びかけができないものか。歌でもいい、映画でもいい、文章でもいい、絵でもいい、本気で世界を、人間を変えようとするような手触りのある、私への呼びかけ、働きかけだと読み手、聞き手、受け手がわかるものをつくりだせないか。いくら、大変だ、大変だというニュースを書いても、ほんとうに大変だと思ってもらえないようでは、そのニュースは、骨身にこたえるものにはならないのではないか。最近、こういうことで悩んでいる。文学の意義も、こういうところにあるような気がする。

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