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2006/05/24

カツオを追う男

 TBS系の「情熱大陸」(21日)で、カツオ漁船の漁労長に焦点をあてていた。スポンサーのビール会社のCMにタイミングよくカツオが登場したので、うーん、うーむ、と唸ってしまったが、それはさておき、いまや、漁師もハイテクの時代なのだと納得できる紹介の仕方で、いい番組だった。

 カツオは、こうした漁師たちの情熱と汗と血と涙で釣り上げられているのだ。と、感心すると同時に、やはり、バクチ的な要素があるのも確かだった。他の漁船群と離れて、別の海域へ乗りだし、大物狙い、大量を狙う。待つことが、ほとんどというのも、リアルな点。レーダーやサーモグラフィー的な装置類やら、放送できないとモザイク処理された装置やらをテレビは映していた。おそらく、なぜ、あの漁船だけ別の海域へ乗り出せるのかの秘密が、あのモザイク処理された装置に隠されていたのだろう。

 沖に出る男たちの姿を見ていると、この国の政治のことがしきりに思い出されてくるのが不思議だった。漁師たちのおかげで、われわれはカツオを食べることができる。カツオを能天気に食べるだけの私は、漁師たちのことを頭に浮かべはしない。うまい、とか、脂がのっている、とか、旬だね、とか、ありがたい、とか思うだけである。まれに浮かべる人がいると思うが、おそらく少数派であると思う(いや、そんなことないよという人がいるだろう。親に感謝すべし)。だれかに感謝せずにはおれないような関係のなかに、本来、私たちは、おかれている。

 ところが、である。話は飛ぶが、田中角栄は、土建国家形成によって、この庶民の「ありがたい」という思いと政治とを目に見えるかたちで直結(ねじれた感じで)し、利益誘導をはかった。ほとんどみずからの利権づくりに奔走したが、田中邸に招くことで、庶民を錯覚させた。ミクロの部分で「ありがたい」と思わせ、マクロの部分で、私利私欲に務めた。

 実は、カツオを追う男のなかにも「政治」はある。政治と一見、「無縁」というかたちをとって。なぜ、政治と「無縁」にみえるのか。戦後政治の欠点は、そこにあると思う。カツオを追う男も、経済的条件と無縁ではない。燃料代の高騰が、これからの彼を苦しめるであろう。カツオがとれなくなってくる環境条件になってくるかもしれない。環境汚染が、カツオ漁船をとりまいている。

 政治と「無縁」だと思わせるイデオロギーが、共謀罪を容認し、教育基本法の改悪を容認する。そして米軍再編も、憲法9条の改悪も。「無縁」だと思わせない想像力をもつのは、文学である。文学とは、もちろん、小説だけではない。
 

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2006/05/22

百合子の集い

 このところ考えつづけている「監視国家」というのは、国民的に拡大された刑務所・収容所になるというのが、ひとまずの結論(なんら論証していないが、書きつけておかないと忘れるのでメモ代わり)で、我々も、刑務所に入らないままに、刑務所暮らしを強要されるような具合になってしまう。刑務所には、罪人を監視する看守というのが必要であるが、強権的国家は、これを人々の疑心暗鬼をかきたてる「相互監視」で突破しようとしている。すでに、斎藤貴男氏が先駆的に、プライバシー・クライシスの本を著している(斎藤氏の書いた本を読んだわけではない)ので、それらの本も読んだうえで、このブログにも書きつけていきたい。

 さて、宮本百合子である。岩波文庫にも文学的作品が収められているこの偉大な作家について、どのくらいの人が知っているであろうか。最近の作家のものを読むよりは、百合子の作品を読んだ方が良いということもあるくらい、知的に冴えわたる文章。戦前の天皇制絶対主義の時代、当時の世界の「監視国家」のなかでも先端的な大日本帝国で、弾圧に屈せず、反戦のたたかいを粘り強くつづけたことでも知られる。夫は宮本顕治。

 作家・宮本百合子の没後55年を記念する集いが、19日夜、東京・新宿区の四谷区民ホールで開かれた。日本民主主義文学会の主催である。作家の森まゆみさん(地域雑誌『谷中・千駄木・根津』編集人)が、百合子の生涯にふれて、駒込林町に住んだ百合子の姿を、ていねいに説いていた。その人間が住んだ場所から接近してゆくというのは、プライド・オブ・プレイスの森さんならではの接近の仕方で、百合子の作品「伸子」のなぞも含めて、人間の複雑さ、不可思議さも伝えてくれる名講演だった。百合子のことを知らない人が、森さんの話を聞けば、きっと百合子の書簡や日記までひもといてみたくなるだろう。

 そして、森さんの前座を務めたのが、作家の浅尾大輔さんである。浅尾さんの話は、彼のブログで読むことができるので、ぜひ、読んでいただきたいのが、百合子の現代的な読みを示す、素晴らしい報告だった。短い文章のなかで、みずからの文学的な問題関心に惹き付けて考えているところも良い(いまの時代は遠慮していたらアカンのだ)。さすがである。若い人たちが、百合子を読む会をつづけ、疑問点なども、メールのやりとりで深めてゆく。生きた文学の姿がある。浅尾さんは、百合子の文学を「根源的」と位置付ける。そこに、たえず、立ち帰るたくなる何かがある、というわけである。

 作家へのリスペクトが失われてきているともいわれる。実際、リスペクトを失わざるえないような作品が多いのも事実だ。しかし、宮本百合子の生涯を考えると、日本にも、こんなに豊かな、温かい(それこそ他者に温かい)作家がいたことを知るだけでも、明日が違って見えてくるのではないだろうか。ぜひ、宮本百合子の小説、評論に多くの人が接することを願って。

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2006/05/21

共謀罪

 フジテレビ系の「報道2001」というのは、前からひどい番組だと認識していたが、21日放映分だけを見ても、自民党・公明党の報道官を務める役割を十二分に果たしている。
 共謀罪をめぐって、何か、小泉首相が今国会での成立を求めないことを判断したとか、なんとか嘘くさい報道をしている新聞があったが、フジテレビ系の、この番組を見ると、成立を求めないどころか、あわよくば成立へ執念を燃やしていることが、バレバレの内容である。自民党・公明党(自公党と呼びたいところである)は、フジテレビが勝手にやっていることと開き直るであろうが、番組では、平沢某ら自民党政治家出演のもとに、議論している。どうみても、まだまだ共謀罪を実現させる「意欲」に満ちている。しかも、櫻井よし子である。いかにも共謀罪に反対であるかのようなポーズをとりながら、「修正」されたから共謀罪は実現させなければならないという立場にたっている人物である。節操のなさは、筋金入りである。

 とくに、気持ちが悪いのは、フジテレビ系「報道2001」のキャスターが、共謀罪への疑問をなんら感じておらず、実現させなければならないという固い決意のもとに番組運営に徹していることだ。反対意見にたいして、こういう懸念もあるが大丈夫と政府側の説明を繰り返している。いやあ、狂っているぞー。やはり、ファシズム国家になってしまったか。この番組だけを見ていると、そう思わずにいられない。

 市民や労働組合などにまで、政府側に都合の悪い、行政側に都合の悪い行為を準備したとか、口にして示唆したとか、行ってもいないことを「犯罪」だと当局に勝手に決め付けられて、犯罪人にされてしまう共謀罪。こんな馬鹿な法律をつくろうとしている人々こそ犯罪者である。
 国際的な条約を批准したから、共謀罪をつくらなければならないのだと平沢某はのたもうていたが、その条約のどこにそんなことを書いているのか。ましてや、国民の要求でなくて、空想から法律を整備しようというのは犯罪的行為ですらある。

 監視カメラのことも、共謀罪とかかわっている。自由法曹団はいう。「最近、国民・住民を監視・管理する法令が次々と制定・準備されています。盗聴法、有事法制(国民保護法制)、住基ネット、生活安全条例、監視カメラ、そして共謀罪、これらが成立した社会はどのような社会となってしまうのでしょうか。盗聴法は、電話での会話を警察が傍受することが出来る法律。有事法制は、日本がアメリカの戦争に参加するための法律で、国民に協力させるための法律。国民保護法制とは、地方自治体が住民を保護すると称して、避難や立入禁止の場所を設け、統制するための法律。住基ネットは、国民一人一人に10桁の番号をつけ、各種行政に利用できるシステムで国民を一元的に管理することが出来るシステム。生活安全条例(安心・安全街づくり条例)は、防犯等について行政の責務、事業者の責務、住民の責務を定め、地方自治体、警察、住民が一体となった防犯監視体制を作るための条例。例えば、マンションを建築する業者には、防犯設備について所轄の警察署と協議することを義務づけるなどしています。防犯カメラと言う名の監視カメラが街中に設置されており、住民は知らぬ間に撮影され、場合によっては警察にデータが提供されています。今、私たちの社会は、いろいろな名目で隅々まで監視される社会になりつつあります。防犯カメラが犯罪の検挙に役立った、防犯カメラがあれば犯罪を未然に防止できるという議論がありますが、それならば、日本国中ありとあらゆる場所に防犯カメラを設置しなければ犯罪は防止できないことになってしまいます。それは、事実として不可能ですし、また、国民全体を24時間・365日監視する社会になってしまいます。生活安全条例は、住民に地方自治体の施策に協力することを義務付けており、住民相互が互いに監視するシステムを作りだしています。そのような現代社会において、共謀罪が成立した社会はどのような社会になってしまうのでしょうか」

 まさに、自由法曹団のいうとおり。相互監視社会をつくりだし、疑心暗鬼にさせてゆく。戦前の体制そのものである。それを凌駕する可能性すらある。凶暴な法律をゆるしてはならんよ。
 
 
 

 

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2006/05/18

冤罪と「自白」、そして保険金

 最近、保険金がらみのニュースが、なにげに社会面をにぎわせている。どうも、保険会社の臭いがしてならない。どういう臭いか。ようするに、保険金を契約者に払わない方向での策略の臭いである。よ~く考えよう~、保険会社は怖いところだよ~。

 このあいだの日曜日(14日)に、鳥越俊太郎氏の報道番組で、大阪のある事件を特集していた。風呂場と車庫がきわめて近い家での火事で、子どもが焼死したことにより、親に保険金殺人の嫌疑がかけられ、逮捕されて、有罪の判決がくだり、刑務所に長年、放りこまれているというもの。

 不思議なことは、いくつかあって、まず、子どもが入っていた生命保険は、額もふつうの保険金がおりるものだった。近所の人たちも、そのことを認めているらしいこと。

 つぎに、鳥越氏ら番組関係者が、事件の様子を再現し、実験を重ねたところ、驚くべきことがわかったという。つまり、車からガソリンが漏れ、それが風呂場の給湯器(車庫側に設置)の種火に引火した可能性が、きわめて高いこと。アメリカでも類似の事故があり、問題になっていたこと。

 警察側は、父親がライターで車のガソリンに火をつけたとしているが、揮発性の高いガソリンが爆発的に燃え上がるスピードから考えて、とても不可解だということ。とりわけ、現場の燃え広がり方が、車のガソリンと給湯器の種火との関係を立証しているとの専門家の意見もあること。などなど、いくつもの疑問点、とても犯罪ではなく、事故であることを説得的に物語る証拠の数々があることを、鳥越氏らは伝えていた。

 ただし、問題は、逮捕された親が警察の取り調べに、「自白」してしまったことだ。「自白したら、犯人に決まっている」というなかれ。逮捕された親の子どもで、幸い火事から助かった子どもがいて、この子どもの証言も、およそ、そんなことを話せるはずがないことまで「証言」しているという。番組で鳥越氏は、憲法の条文を読み上げて、疑わしきは罰せずの規定を強調していた。
 ほんとうに、そのとおりで、「自白」偏重の捜査が、いまだに続いている。冤罪のほとんどは、「自白」によるもので、長い取り調べのなか、容疑者が動揺している段階で、警察の計略にまんまとのっかってしまうケースが多いことは、多くの人が知るところでもある。

 番組では、触れていなかったことだが、紹介されていた事件で、一番得をしたのは、保険会社である。だれが得をしたかどうかだけで事件をみると、判断を間違うケースも多いのだが(たとえば大韓航空機事件)、少なくとも、保険金殺人という疑いが浮上したことで、保険会社は親に子どもの死亡保険金を支払わなくてもすんだ。ドイツ中世から近世にかけて、魔女狩り裁判で、人々の財産が没収されていったケースがある。あまり参考にならない例だが、現代にも「魔女狩り」はある。

 作家の広津和郎だったら、この事件をどう見ただろうか。

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2006/05/16

東京メトロの監視カメラ

 日本テレビ系列「きょうの出来事」(15日夜放映)が、監視カメラを特集していた。なかなか、世情に敏感な、あっぱれな報道姿勢で好感がもてる。
 番組によると、新作の監視カメラのショーが開かれているらしい。知らなかった。怒りが湧いたのは、東京メトロ霞が関駅で、通行人の顔を識別するシステムの「実験」をしていることだ。なにをしているのだ。東京メトロは。

 なにが監視カメラの「実験」なのか。こういう言葉のごまかしが横行するのは、ほんとうに許せない。実際に自動改札を通過する人々の顔を記録し、判別しておいて、なにが「実験」なのか。「実用」ではないか。東京メトロ霞が関駅の顔識別システムは、目鼻口、肌の情報で、瞬時に人物を特定してしまう。メガネをかけてもダメ。一卵性双生児でもダメ。意外に、双子といえども、顔は違うのだ。
 番組では、実験していなかったが、かぶりものをかぶった犯人がでてきたらどうするのか。そういうあやしい人が増えてくるぞ。このままでは。仮面舞踏会の拡大版、いや東京中が仮面舞踏会、マスカレードになってしまう。「顔のない裸体たち」の増殖である。

 番組では、控え目なコメントながら、一方的にあやしい、あやしくないを判別することへの疑問もなげかけられていた。あやしい目で見れば、どんな人間もあやしい。
 驚くべきことに、東京・世田谷区成城では、ある民間人が家から通りの方向へカメラを設置して、随時、警察に情報提供までしているという。なんや、あの世田谷のおっさんは。人権侵害もいいところではないか。ナンバープレートが映りにくいからと、監視カメラの「改善」まで警察から指導されている。こんなところで「改善」運動して、どないするのか。

 番組によると、首都大学東京の前田雅英教授は監視カメラ推進派で、龍谷大学の浜井浩一教授は監視カメラ懐疑派であることもわかった。
 外国では、すでに監視カメラへの疑問が投げかけられていることも伝えていた。

 イギリスでは、監視カメラに映った、なんの罪もない人物を犯人に仕立て上げた。あやしい、あやしいと追いかけて、射殺事件までおきている。ある人物が、A→犯行地点Bへ移動したからといって、犯行地点そのものが映っていない場合、あくまでも犯人であるかどうかは、類推でしかない。犯行現場が映っていた場合は、確度は高いが、監視カメラは、すべてのものを映し出すのだろうかという疑問もわく。

 「きょうの出来事」では、カメラより人の目で監視するのがよろしいのではないかといったような結論を導いていた。なんか、ごまかされたような感じだが、子どもの通学路なんかの場合は、おとなたちが、警戒していてくれれば、まだ安心だろう。動物の群れの論理である。
 
 監視カメラ反対派の意見としては、監視カメラなんかあっても、犯行現場が映っていても、殺されたら、なんにもならんという意見もいいたいところである。実際、監視カメラがあっても犯罪を防ぐことにはならない。事後である。犯人をしぼりこむのに、少々、役に立つだけだ。ヒヨコのメスとオスをふりわけるような顔識別システムの「実験」をしているカネと労力があるのなら、地下鉄自体の安全性向上に、もう少し本気でとりくんだらどうか。ホームの駅員を増やすとか。

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2006/05/12

監視国家と民衆

 人々を監視する機械が至るところに設置されているのは、みなさんもご承知のとおり。一般道路におけるNシステム、監視カメラ、駅の監視カメラ、駅の改札マシン、携帯電話、キャッシュディスペンサー、あるいは歌舞伎町などの危険地帯の監視カメラ等々、わずか数ミリの穴さえあれば、カメラからなんでも覗かれてしまう。

 空からは、アメリカのスパイ衛星だってある。

 警察、公安調査庁にとって、いまや尾行せずとも、特定の人間の行動を追いかけようと思えば、かなりの楽をして、尾行することになる。最近では、移動カメラといって、バンに監視カメラを積んで、スピード違反を監視しているらしい。だから、Nシステムだけに気をつけていればよいという状況でもなくなってきている。携帯電話のカメラなんていうのも、携帯監視カメラに早変わりする。
 まことに、つまらん機械に国民の税金や労働の対価がつぎ込まれているわけだが、潤沢な警察予算と監視システム会社との癒着なども、追及の対象ではないのか。

 JR東日本のスイカカードなんて、ほんとうに「誰何(すいか)」するためにつくったのではないか。

 さて、こういう窮屈な監視社会のもとで、人間らしい生活はいかにして可能か。素朴な提案になるが、やはり、面と向かって話し合う行為が一番である。いくら監視しても、盗聴しても、人と人とのつながりを断ち、粘りづよいたたかいを妨害することは支配層にはできない。監視カメラの向こう側にある眼を想像してみよう。公務員削減、消費税増税、医療費負担増、介護保険負担増、教育基本法改悪、憲法改悪、共謀罪実現をねらったり、たくらんだり、実現したりしている連中ばかり。本当に監視されるべきは、自民党、公明党、アメリカ大使館、日本経団連などである。監視する者が、監視を免れることを許してはならない。

 監視している連中を逆に監視することが重要だ。話の次元は違うが、朝日新聞なども、政治の監視をしているようで、最近はまったくそういう役割を果たしていない。責任放棄ではないか。小野十三郎がかつて「日本の新聞」という詩を書いた。その詩にも示唆されていたが、戦争の臭いのする新聞なんて、もはや役に立つ、立たない以前の問題ではないのか。毎日新聞は、すでに改憲へと舵をきりはじめた。情けないなあ。やはり、新聞の特殊指定の問題で揺さぶりをかけられたのではないか。この間の転落ぶりは、目を覆う。

 アウシュビッツ収容所に象徴される「死の工場」が、システマティックに死を「生産」することを可能にしたように、監視カメラを増やしつづけて、一大監視カメラ国家をつくりあげて、人々からプライバシーを奪い去り、すべての人間を掌握し、管理下に置こうという衝動も、資本の論理に毒された人間の不気味さを感じさせてあまりある。

 衝動的な資本の論理に毒されない生き方をするためには、どうすればよいか。その問いかけは、139年前に、ドイツ人が出版しはじめた本に含まれている、と思う。あるいは、すでに世界のいろんなところで、自律・自立する思想と行動が芽生えつつあると思う。ラテン・アメリカや東南アジアやインドで。悲観もせず、楽観もせず。

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2006/05/05

東京ドイツ村への大渋滞小噺

 東京ドイツ村へ行こうとしたが、大渋滞に巻き込まれて、断念、せっかくの家族だんらん、のんびり休日が、フイになってしまった。到着目前にして、わずか数百㍍を1時間しか進まない。たまげた。ラジオの交通情報に捕捉されない、知られざる大渋滞であった。
 マイカーのなかには、3歳と0歳の男の子が、ぐったりしている。東京ドイツ村の観覧車が見えている。近くにはダチョウ園(?)もある。行くべきか、引き返すべきか。ことは、人命にかかわる大問題である。0歳は、ミルクの補給に成功したせいか、すやすや寝ているが、3歳は、怒りくるってふてくされている。
 しかし、異常なまでの車列。マイナーなレジャーランドと侮ったのが、そもそもの誤算だった。脇道へ迂回して、別ルートからのアタックを試みたが、それも水泡に帰した。東京ドイツ村への入り口から三方、四方へ車が押し寄せているありさま。高速道路の出口に近いのも、逆に仇となっている。路線バスも渋滞にまきこまれて進まない。想像を絶する光景には、ただただ笑うしかない。歩いたら、まだ到着できそうなのに、歩く人が一人もいない。コンビニへ歩いて、また、車へ引き返している。
 まさか、東京ドイツ村に人が殺到するなんて、思いもしていなかった。目的地への道は、鴨川へ抜けるルートでもある。近隣のゴルフ場はガラガラで、カラス数10羽がグリーン上をちょんちょんと行ったり来りしている。閑古鳥が鳴くとは、ほんとうのことなのだ。ゴルフ場というのは、さびれてくるとむなしいなあ。カラスの放し飼いスペースでしかないのだもの。
 渋滞中に邪推して、この日は、東京ドイツ村におそらく有名なタレントがきているとか、はたまた、W杯に関連したイベント、ボウケンジャーとかプリキュアショーとか、やっているのではないかと空想、瞑想、夢想してみたが、そうでもないらしい。引き返す途上、大渋滞の根競べをつづけている人々に、教えてあげたい義侠心もめばえかけたが、とうてい伝えきれるものではないほど、膨大、圧倒的な車、車、車。いらぬおせっかいは無用とばかりに退散した。レジャーシートのうえで寝そべる家族を思い描いていたのだが、世の中、甘くないねえ。
 あと、オフ会とやらも東京ドイツ村でおこなう人々もいるらしい。ひょっとして、ある有名サイトのオフ会が開かれたなんてことはないだろうか。いまだに謎としかいいようがない。

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