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2006/02/04

公正・中立という虚妄

 「アドルノ的」も、「アダルト的」と誤解されないようにしなければならない。別に大したことではないのだが、おそらく、誤解というものが、人間関係の大部分を占めているような気がしてならない。話し合ってみれば良い人なんていうことが、経験則で、意外に多い。逆に文章が良いのに、性格悪いということもある。これも不思議なこと。

 アドルノ先生(1903~1969)の場合、どうだったか。文章も小難しいが、性格も相当も難しい人物だったのではないか。と書くと、おまえは、アドルノ先生に会ったことはないのに、なぜそんなことをいうかといわれそうだ。亡くなった人物に相対するのは、文章、映像、音を通じてでしかない。文章には、アドルノ先生に会った日本人の書いたものも含まれる。その文章には、忙しそうなアドルノの姿しかない。あるいは、美学の理論家と自負していたアドルノの姿も。美学というのは、誠に魅力的な学問である。しかし、日本では、大学の一講義として存在しても、根づかない。

 東京写真美術館で開かれているベトナム戦争をめぐる写真展にも感動したが、その階上で行われていた岡本太郎の撮った写真展もすばらしかった。岡本太郎の映像も展示物のひとつなのだ。岡本太郎は写真家でもあったのだ。おそらく、○○家のような分類が愚かしいほど、彼の存在自体が、芸術たらんとしていたともいえる。彼も誤解されていた人の一人だろう。何を撮るか、世界の何を切り取るかで、その人の考えていたことが見えてくる。岡本太郎の見つめていた日本は、まぎれもない、生活を愛する日本人の姿だった。田植え祭りに興じる村人の姿。ほんとうの美しさという究極的に抽象的なものを表現するのは、生涯をかけるほど、楽しい仕事だろう。少なくとも、そう思わせてくれる写真があった。

 「公正・中立」というウソくさい立場表明がある。ウソくさいというよりは、ウソそのものだといっていい。どういう立場からものをいうか。商業的なマスメディアでは、決定的に重要なことが、隠蔽される。ホリエモン(あるいはホリえもん)をめぐる言説にも、論者の立ち位置が、明瞭にあらわれる。自民党からお墨付きをもらっていたホリエモンをめぐる問題での被害者の立場、視線は、重要である。彼にだまされた人たちの側から見るとき、問題の本質があからさまになってくる。

 ところが、いま多くの新聞に登場する論者の視点は、愚かしいほど、ホリエモンという現象だけを論じている。なるほど、これは、マスメディアにも深刻な責任がある。なぜ、ホリエモンが若者に支持されたかというような問題のスリカエ。どこの、どんな若者が、彼を支持したのか。マスメディアの流す「風説」を疑ってかからないと、ホリエモンが若い人たちに支持されていたかのように錯覚させ、既成事実化する言説がまかりとおってしまう。

 斎藤茂男というジャーナリストが、優れていたのは、この「公正・中立」という虚妄を打ち破る術を自覚していたことだろう。社会を変える立場、生活弱者の立場に徹底的に立つことで、本当にものが見えてくるという確信。しかし、こういったところで、恰好いいことをいいすぎると誤解されるのがオチだろう。アドルノ先生が生きていたら、聞いてみたいのは、こういうことなのだが。

 

 

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