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2005/12/29

見るべきものは その3

 今年も暮れようとしています。新しく生まれた人もいれば、亡くなった人もいます。国勢調査によれば、日本の人口は約1万9000人減少したそうです。年々、悲しさもうれしさも身にこたえるようになってきました。なさけないことです。孔子がいったのは、惑わないようにせよ! ということだったのだと感じます。寿命の長さも関係していると思いますが。

 年間9000人近い人が交通事故で亡くなり、3万人を超える人が自殺しています。これだけで4万人。さらに、JRの事故など、悲惨な状況下で命を落とした人もいます。ユニセフは、アフリカの難民、子どもたちへの援助を呼びかけています。ただ、アフガニスタンの人たち、イラクの人たちへの援助は、呼びかけられていません。こんなところにも、国際政治が影を落としています。ユニセフに募金すると、お返しに、名前をプリントしたシールを送ってくれます。はがきなどに使うのに便利です。募金の使い道さえはっきりしてくれると、募金のしがいはあるのですが。
 
 あの白い輪を手にはめるキャンペーン。一体、なんだったのでしょうか。書店では、無惨に売れ残ったものが山積みになっていますが、企画した人は、いまどう思っているでしょうか。別にカンパをすればよいのに、なぜ代償が必要になるのでしょうか。赤い羽根共同募金の一変種だったというべきか。どういうルートで収益が使われているのか、公開されていないところに、不審を抱くのは当然ともいえます。

 無償の行為の代償が、有償なのは、皮肉なことです。「私はカンパした」と示さなければならないのは、明らかに虚栄心のなせる技でしょう。誠に、この「虚栄心」なるものは、意外にも、至る所に見ることができます。かくいうブログもささやかな虚栄心のなせる技ですが。(つづく)

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2005/12/19

人生への意欲欠如社会論

 最近、都に流行るもの。そのひとつは、「下流社会」論か。かくいう私も、三浦展著『下流社会』(光文社新書)によれば、「新人類世代」と分類され、下流社会の一員ということになる。なぜか、奇跡的に相手が見つかり、結婚することはできたが、将来は不安である。しかし、かつての「新人類」論のうさんくささにうんざりしているので、「またか」と思う。しかし、階層論の流行は、いまや恐慌なみに、周期的に襲ってくる。今回は、装い新たに、人生への意欲欠如論として登場してきた。というより、人生への意欲欠如を強いる社会批判論の登場といった方が正確か。

 この本の特徴は、下流社会の構成員にたいし、下流社会の構成員たる「自分」を自覚させてくれるところにある。おれは上流ではないが、中流かな、下流かな、とぼんやり考えている人間にたいし、「おまえは下流なのだ」とミスターXよろしく「虎の穴」への導きをするのだ。ほうら、だんだん下流に見えてきた、見えてきたと暗示をかける。あいつも下流、こいつも下流、同じ下流なら、まっ、いいか、みたいになって、アホを支持基盤にする小泉やブッシュの思いのままというわけである。下流にとどまっていてはいけないというメッセージは、ひそやかに秘められている。

 この本を読んで、下流社会の構成員としての現状には満足していない人間に自分が生まれ変わったとしよう。そうすると、こんな人生でいいのか、下流社会を放置していていいのか、という怒りが芽生え、行動力の源泉になってゆく…。ところが、下流社会論の絶望的なところは、まあ、こんなことをいったところで、下流社会の人間からみれば、下流社会の構成員のくせに何を偉そうにものをいっているのか、と、なるわけである。人々の連帯は可能か、社会を変えることができるのか、という問いかけに至るには、まず、いまがどんな社会かをつかまえることが肝心である。印象にたよる批評では現実を1ミリも動かせない。自戒をこめていう。

 三浦さんの本の弱点は、思いこみによる印象批評に傾きすぎていることと、生きる意欲を欠如させている下流社会発生の原因が追求されていないことだと思う。「下流社会」は私の造語だと自慢している割には、類型化し、モデルにあてはめるだけである。ちょっと気の利いたことをいう人には、言葉遊びとしておもしろいだろう。テレビ業界人向けの本といえるかもしれない。そういう言葉遊びの面白さは否定しない。が、類型化は、現状を固定的に見ることでもあり、暗黙のうちに、永遠に自民党政権がつづくと想定していることにもつながる。また、下流社会脱出策を学歴社会と結びつけて論じているあたり、資本のイデオロギーに憑依されているかのようである。確かに、かつては階層上昇の回路として大学があった。しかし、いまはどうなのだろうか。大学を出て、就職した会社が倒産しかねない現状を隠蔽して、学歴に期待をかけるのは、あまりにも牧歌的すぎるのではないだろうか。ましてや大学を出ても犯罪者になることは日常茶飯である。

 何よりも、著者が自分自身を、人生への意欲あふれる成功者と位置付けて、「下流」の者たちへ訓示を垂れている点もいただけない。

 むしろ、日本の貧困という角度から論じて、啓発してくれるのは、橘木俊詔さんである。OECD(経済協力開発機構)の比較調査によれば、貧困率で日本は世界第5位。先進国では、アメリカ、アイルランド(少々、無理があるが)に次いで第3位という。実際は、人口あたりの貧乏人の割合が世界第2位ということになる。OECDの定義では、全国民の平均的所得の50%以下の所得しか稼いでいない家計を貧困者とみなすという。10年前、日本は8%台だったのが、いまは15・3%というから、2倍弱の増加だという。アメリカも貧困率が17%なので、日米貧困率同盟である。橘木さんは、貧困の原因にもふれていて、不景気による失業の増加、不安定雇用、高齢者間の貧富の格差の拡大、離婚率の上昇にともなう母子家庭の増加をあげている。
 さらに、日本の最低賃金の低さ、行政の対応のまずさによる生活保護の機能不全などなど、である。貧困の原因をおさえれば、解決方法もみえてくる。
 
 学問的な装いをこらして、不真面目な階層分類をするよりも、日本の貧困の原因にメスをいれることこそが急務である。

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2005/12/11

見るべきものは その2 「殺伐とした…」

 文字通り、「殺伐とした」という表現が似合ってしまう昨今、われわれは(「全共闘」のような言い方でマズイ主語ですが)、いかにしたらよいか、つまり、何をなすべきかということであります。

 子どもが、このように、どんどん殺される状況は、社会的には、末世(この表現も仏教的)、地獄絵巻、方丈記的世界、応仁の乱後の京都のようであるわけですが、北オセチアのあのテロリストたちの事件をふりかえるまでもなく、いまや世界的にも「末世」な状況にもなっています。胸をかきむしられる思いをしている人々も、たくさんいるのではないでしょうか。
 
 狂った男が教室に乱入して子どもを殺したり、子ども同士が教室で殺しあったり、通学路で誘拐されて子どもが殺されたり…。殺戮の対象が、なぜか少女であることにも注意を喚起したいと思います。

 作家、津島佑子さん(もちろん、太宰治の二女)の『本のなかの少女たち』を読みますと、いわゆる「鏡子ちゃん事件」なるものにふれた文章に出合います。では、その「鏡子ちゃん事件」とは何か。

 1946年生まれの津島さんが、まだ小学生1、2年だったようですから、1952、53年ごろでしょう。朝鮮戦争のころ、鏡子ちゃんという6、7歳の女の子が、小学校のトイレでいたずらされたうえに、殺されたというのです。当時としても、非常にショッキングな事件といえましょう。

 「復員兵という名前の、子どもたちにとっては得体の知れない男たちが、亡霊のように街をうろつきまわっている時代だった」と津島さんは、書いています。敗戦後6、7年たっても、当時の日本は、戦争の傷痕濃い時代だったのです。津島さん自身も、男の子ではないから、恐ろしいことがおこるかもしれないという「呪い」、なぜ女の子なのかを理解できない「得体の知れない恐怖」をあじわったそうです。さらに、学校のトイレ自体も恐怖の場所になり、「恐怖感から、私は自分の性を知らされるようになった」といいます。

 子どもたちは、子どもたちなりに、「殺伐とした」状況をうけとめています。好ましくないものの、それをなんとか乗り越えようと苦しんでいます。しかし、子どもたちは、いきなり「戦争の時代」に生まれてきてしまいます。「生れて、すみません」という世界しか、子どもたちに提示できないのは、なんと悲しいことでしょうか。

 戦争の時代を背景として、いまも、学校、通学路、塾は、子どもたちにとって恐怖の場所になっています。これでは、学校にゆかぬ方がよい、塾にゆかぬ方がよいという結論になります。ひきこもりこそ、生き延びる道だとは、なんと悲しいことでしょうか。しかも、世界は「テロ」「戦争」に侵されています。多くの人々を殺戮したイラク戦争へ加担し、自衛隊の派兵延長を簡単に決めてしまう政府を、国民の半分(ただし、投票数の半分なので、明らかに国民の大多数とはいえない)が支持していると、いい気になっている小泉政権、彼らを支持している人々にも、責任がないといえるでしょうか。もちろん、子どもを殺したのは、具体的な犯人たちです。子どもという弱い存在に、とくに少女という存在に、ストレスのはけ口、怒りをぶつけるのは、狂った思考というほかありません。性欲のコントロールにとどまらず、「理性」の喪失、つまり、悲惨な結果を予測して、それを回避できる思考の欠如ともいえるかもしれません。
 とくに、強調したいのは、イラク戦争の欺瞞を容認しておいて、人の命を守ることができるのか、ということです。米軍は、アフガニスタン、イラクの人々を殺害(もちろん、時代をさかのぼればベトナムほか多数の人々が含まれる)し、イラクでの米兵の死者も2000人をこえています。日本軍も、地域的には中国、ハワイ、フィリピン、マレーシア、シンガポールなどで大量殺戮を繰り返しました。侵略戦争を正当化する靖国神社への参拝にひらきなおる小泉政権と「殺伐とした」世の中は、つながっていると私は思います。公明党が、なんと弁解しようと、それは欺瞞であり、同罪です。

 世直しの第一は、首相官邸で、ファッションショーを開いて、モデルの姿に、ニタニタ笑っているエロおやじに期待を寄せるのは、もうやめた方がよい、というのが結論です。言葉足らずで、短絡的であることは十分自覚しているつもりです。ひきつづき、考えつづけることになるでしょう。ご静聴ありがとうございました。(以下、つづく)
  


 

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2005/12/08

ある作家

 12月5日、東京・新宿の紀伊国屋書店本店で開かれた、作家・丸山健二さんと俳優・児玉清さんのトークショーは圧巻だった。作家の話で、あれほど爆笑がおこるのは、井上ひさしさん、大江健三郎さんのレベルに等しいか、それを凌駕する。しかも、聴衆の層が違う。実業家タイプの人たちが多い。スポーツ選手の講演会か、経済講演会のような感じもする。生き方にほれこんだ人たちの座っているところから、笑いが度々おこる。あの感覚は、渥美清さんが亡くなったときの「男はつらいよ」上映会のコアな渥美清ファンがはじきだす笑いに似通うものがあった。

 長野・安曇野の自宅で作庭に励む丸山さんの肉体は、62歳になるとはいえ、肩の盛りあがり具合など、黒豹を思わせるしなやかさと質実剛健さを備えていた。頭はつるつるだが、毎日剃りあげているという律儀さ、自己管理能力は、完璧の様子。歩き方も、大またで、大きく手を振り、ゴッゴッという具合。しかし、乱雑な人ではない。23歳で芥川賞に輝いた「夏の流れ」以来の、スッスッと直線的な文章は健在で、話を聞いていると、とにかく端的な表現を好むようだった。それだけ、わかりやすい。読者にストレスを与えない。ただ、リングサイドに追い詰めるような、畳み掛けるような感じはある。

 まだまだ多くの人に誤解されている作家は、外国からも注目されはじめ、いま、輝きをましている。人間の生き方を励ます方向へと進んでいる。トークショーの後、久しぶりに街の風景が異なって見えた。

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2005/12/04

見るべきものは

 「見るべきものは見つ」。果たして、現代日本に、こう言い切って人生を終えるほどのものはあるでしょうか。ここはひとつ、謙虚にものごとを考えてみようと思います。

 一つは、知的怠慢で、日本には、そんなに見るべきものはないと言い切る場合。まず、傲慢のそしりをまぬがれません。映画、演劇、美術、音楽、文学、芸術・芸能一般に、まだまだ大勢の人々に知られない素晴らしいものがあることには間違いありません。しかし、残念ながら、いまの日本のテレビ番組に限定すると、見るべきほどのものはほとんどないようにも思われます。すぐれた人ほど、テレビに登場する機会が減っています。アドルノ先生(1903~1969)ならば、短い言葉で、テレビと社会との相関関係を指摘したでしょう。墓に眠る先生に、蔑まれるのを承知のうえで、まだマシなものを挙げると、NHK教育テレビか、TBSの情熱大陸、テレビ朝日の徹子の部屋、テレビ東京の美の巨人たちくらいではないでしょうか。比較的に安心して見ていられる情熱大陸にしても、あるキャンペーンの一環だったりすることがあり、それを知ると興ざめすることもあります。
 アハハ、ガハハのバラエティー番組の阿呆ぶりに、へきえきしている人は、意外と多いように思われます。なぜ、これでもか、これでもか、馬鹿どもが登場するのか。哲学史もまかり間違えば、阿呆の陳列になるだけに、テレビも阿呆のショーウインド化して長い年月をへてきたように思います。テレビに出れば有名人、テレビに映れば店は繁盛、テレビに露出すれば選挙で当選する等々、テレビのご利益、恩恵にあずかる人々も多いでしょう。

 ラジオは、まだマシです。こういったら怒られるかもしれません。少なくとも、ラジオには、尊敬できる、すばらしい人々が、まだ出演している、といいかえましょう。例えば、小沢昭一氏。話芸に磨きをかけてきた人生、放浪芸研究は、深みがあり、艶があります。テレビ業界の人々には、ぜひとも、まだ見ぬ作家、芸術家、科学者を発掘していただきたいと思います。えっ、そんなの無理? はい、わかりました。(以下、つづく)

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