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2005/08/28

予測と推測

 選挙後の予測と、有権者の行動についての推測をのべてみたい。

 まず、選挙後の予測から。最大のポイントは、郵政という目くらましの背後で、憲法第九条を変える「国会づくり」が加速されるということだと思う。自民党は、11月ごろ、本格的な改憲案を発表する。自衛軍をつくれという、あれである。自民は、議席を増やすための作戦として「刺客」なる欺瞞的な呼称を使っている。気をつけなければならないのは、どちらが当選しようと、彼らが全員九条改憲派であることである。そこには、なんの変わりもない。

 自民党が勝った場合。いまの「新党」(まったく看板だけの党)の何人か、あるいは、全員が、自民党に帰ることになるだろう。武部幹事長も、それを否定していない。国民的には、エセCMにだまされたような、後味の悪さを経験することになるだろう。「だろう」としかいえないのは、予測の言葉だからである。気象予報と一緒である。ただ、過去に、新自由クラブや、自由党やら、日本新党やら、その他、乱立となって、その後、河野洋平をはじめ、ほとんどが自民党へ帰っていった。人造人間キカイダーに登場する悪の首領の言葉「ダークに生まれし者は、ダークに帰れ」のように、自民党で生まれたものは、自民党に帰るのである。

 民主党が勝った場合。この場合も、九条を変える動きが加速する。民主党は改憲を主張している。さらに、岡田イオン・ジャスコ克也の、もともとの出自をたどれば、自民党であるように、この党も、「これまでの自民党」ができないことをやるのが「売り」である。だから、民主党は、「自民党をぶっ壊す」といった「小泉改革」を応援していたのである。もちろん、「自民党をぶっ壊す」の意味の「自民党」とは、「これまでの自民党」であって、「これからの自民党」をぶっ壊す意識など、小泉純一郎にまったくないことは、この4年間の彼の思想と行動を見れば明らかだ。アメリカと財界にこれほど、忠犬ぶりを示す首相も、自民党50年の歴史で見つけるのは難しい。田中角栄ですらアメリカに嫌われた過去をもつ。民主党の「民」もまた、民間大企業、財界の「民」である。前回、参院選では、京セラの会長やら、なんやらと財界人の支援も受けたりした民主党のこれまでの選挙では、金銭的に目に見える実利的な要求を掬いとることで、議席を伸ばしてきた側面が強い。いきおい、民主党の演説は、数字や金銭的な実利の演説の羅列になる。高速道路を無料にしますとか、郵貯の何割かを民間(もちろん、財界とアメリカ)に流すとか、新聞の全面広告(2ページ分使った)の一方も、数字を、ただ並べただけである。あんな無内容な、無駄な全面広告が打てるのも、政党助成金の一部を宣伝に使っているからである。資金のほとんどを、税金に頼っている民主党が、みずから税金の無駄遣いを率先してやっている一例である。

 そして、国民の投票行動への推測である。この十年くらい、選挙で、金銭的で実利的な要求を求める度合いが高まってきているともいえる。それが民主党へと票が流れる原因となっているような気がする。「気がする」としかえいないのは、あくまでも「推測」の言葉だからである。生活が苦しい場合、どうしても、目に見えるものがほしい。これは、理由のないことではない。自民・公明が、年金制度をむちゃくちゃにした現実が、国民的には年金への関心の高まりと不安につながっている。老人医療を安くしてくれとの要求も、この間、破壊されてきた社会保障の反映でもある。自民党政治(旧社会党との連立時代も、もちろん含まれる)の「教育的指導」によって、あるいは生活破壊によって、国民が実利的な投票行動をするように、仕向けられてきた側面もある。

 こうした実利的投票行動にも乗れない人は、結局、「棄権」することになる。投票行動の「棄権」もまた、自民党政治を支える一因となってきたことは、侮れない。実利か、棄権か、で分かれるようでは情けない。ただ、実利の人にも、棄権の人にも、注意していただきたいのは、憲法九条を、持続可能な状況へともっていくことは、世界的には、これほど、実利的で、有効なことはない、ということである。名誉ある地位を占めたいと思うなら、憲法九条をもちつづける選択は、戦争への不参加とあいまって、日本の経済にも莫大な利益をもたらしてきた。そのことは、少数の、良識ある財界人の語るところでもある。

 こんな予測と推測をしてみたところで、自民党政治を本気で変えたいと思う国民が一人でも二人でも、広がらないかぎりは、政治は変わらない。だまされるな! 九条改悪の動きについては、依然として、楽観を許さない。イラクにおける自衛隊(とんでもない事態がありえない訳ではない)の情勢とあいまって、とんでもないダークサイドに落ちこむ可能性はある。日本という地域が、ダース・ベイダー化する事態だけは避けたい。

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2005/08/24

なんとなく暮らしてる

 「チーム ニッポン~!」と、重ねあった手を宙に突き上げるあのばかばかしいパフォーマンス。むさくるしいおっさんたちが、読める文字にルビまでふるご丁寧さで筆をふるうボスザルの一挙手一投足を見守る姿。かと思えば、目をギラギラ、テラテラさせた熟女たちが、「刺客」に指名されて、テレビ局のマイクを向けられ、キャアキャアいっている。赤面するのは、コチラの方である。

 いつぞや、台湾の総選挙の様子をテレビで見て、その激しさに、ばかばかしいなあと思っていたら、日本の方が、もっとばかばかしい。こうなると、吉本新喜劇の方が、よっぽどマシである。岡八郎(晩年は岡八朗)なら、「かかってこんかい~」というところだろう。話はそれるが、岡八郎のギャグは、明らかに間寛平の師匠筋にあたる正統ギャグだった。話はもとにもどるが、特定の集団が滅びていく姿というのは、一定の法則があるようだ。

 選挙というのは、日ごろ隠れている人間の本性を暴き出す効果があるように思う。例えば、田中康夫。江藤淳が評価した、あの『なんとなくクリスタル』のぺろぐり田中康夫である。

 康夫ちゃんが、くっついた相手は、どうみても「ド」がつく自民党である。うどんを注文したら、「ハイ、五百万円」というギャグをいいそうな金銭感覚の狂った人々。もしくは、ステッキを握らせれば、「わしゃ、とまると死ぬんじゃ」的な振る舞いをしそうである。とにかく、常に注目を浴び、動いていないと気がすまない。マスコミの目を引けばいいという、その一点。大阪名物ぱちぱちパンチみたいに、手を突き上げる。自分で突っ込みを入れて、自分でボケることをマスターすれば、吉本新喜劇のギャグのかけらを手にいれることができよう。しかし、いまのところ、自分たちが喜劇を演じていることに気がついていない。憂国の士を演じる男、康夫ちゃんと仲のよい浅田彰氏は、この事態をどう見ているのであろうか。表層文化の一形態として、興味深く眺めているのではないだろうか。案外、楽しんでいるかもしれない。彼らは、日本の土壌に、新しい喜劇を生み出そうとしているのかもしれない、などと分析していたりして…。

 「あっちこっち丁稚」の山田スミ子みたいに絶叫したいところであるが、ここは一つ抑えて、自民党政治の愚かしさを語っていくほかはない。

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2005/08/21

他者感覚

 小泉政治の4年間を見ていて、もっとも厭うのは、自民党の「他者感覚」である。自民党とは、自分党の異名であることは、1955年の自民党結党以来の特徴のように思う。そして、郵政民営化の「民」とは、民間企業の「民」であるように…。自民党の「民」も、そういえば、「民間企業」とりわけ財界をさす「民」のことであったのだ。ようやくわかりやすい状況になってきたというべきか。

 それにしても、ホリエモンである。また、あの顔をテレビ・新聞で見なければならないかと思うと、ゲンナリ感は否めない。もはやフジ・産経グループの一員であるホリエモンが、自民党の支援を受けて、無所属で出ることには、なんの違和感もない。これまた、わかりやすい。ホリエモンもまた、「他者感覚」の欠如した人間である(あくまでもいま現在。将来的に、ホリエモンが「他者感覚」を身につけることはありうる)ことは、偶然ではない。カネで買えないものはないと豪語する、19世紀の帝国主義的ふるまいを疑わない点も、自民党とぴったりである。ライブドアの「どこでもドア」は、自民党ともつながっていたのである。静かでない亀井静香が、ホリエモンのおかげで「民主的」に見えるとしたら、これほどの戯画はない。

 20日夜、ゼネコン大好き亀井静香のコメントを生中継で、長々と垂れ流したTBS系番組ブロードキャスターは、最悪だった。事前運動にあたるのではないか。共産党や社民党の候補が、当該選挙区から出馬予定がないことをいいことに、自民党、無所属、民主党だけの紹介である。衆議院選挙には、比例もあるので、いくら小選挙区の報道だからといって、こんな歪んだ、一方的な、こじつけの、意図的、偏向的な放送は許されるのか。しかも、キャスター自身が、亀井に対して、郵政民営化になぜ賛成しないのか的な質問をぶつけている。ミニ小泉純一郎のクローンが、いつのまにか増殖している。「構造改革」とは、クローン人間改革の異名だったのか。

 郵貯のお金が無駄に使われているのを放置するのか、としたり顔でキャスターはいった。では、一体、どこの政府、政権党が、郵貯を無駄に使っているのか。民営化しますといっている政党自身が、一番無駄遣いの張本人であることを、なぜ知らないのか。民営化かどうかの問題ではなくて、政府・自民党・公明党の政治のやり方の問題を、巧妙にスリカエているにすぎない。

 郵政公社は、その売上げを国に収めてくれるありがたい機関である。そのありがたい機関を民営化したらどうなるのか。この間、自民・公明政権・政府は、民間企業にたいする税金、いわゆる法人税をどんどん引き下げているので、民営化したら、郵政民間企業からの税金は、そんなに入ってこないであろう。小泉政治にたいして財界からの支持が厚いのは、理由がある。民主党も、真の「民営化」なんてことをいっているが、自民党となんら変わるところがない。

 郵政民営化に賛成するか、反対するかで、衆議院議員を選ぶなどという馬鹿げた仕業に、マスメディアはのっかってはならない。なにが「刺客」か。もちろん、郵政民営化というものがいいものだと思っている国民が、一定の割合で存在していることはわかる。しかし、それは、未来永劫ではない。民営化すれば、赤字に転落する郵政公社。そんなことも、多くの国民は知らない。赤字になれば、切り売りが始まる。郵政東日本、西日本…。郵便貯金や簡易保険などの300兆円を超える資金が流動化する。アメリカの投資会社が喜ぶ。民営化すれば、手数料ばかりとる、いまの大銀行のATMみたいなものになる。くそー。カネかえせー。どうして、自分の貯金をおろすだけでカネをとられなければならんのだー。金融機関には、どれだけの国民の税金が投入されたか、もう一度、思い返してみるべきなのだ。

 小泉政治には、他者感覚がない。他者の声を無視し、ひたすら自分の声だけを聞いて突き進むだけである。くだらんなあ。でも、楽しみは、小泉も、民主党・岡田も、選挙で敗北したら辞めるといっているので、それだけが楽しみなのである。ああ、情けない。

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2005/08/09

スピルバーグのえげつなさ

 いよいよ解散・総選挙である。9月11日投票である。9月11日というのはアドルノ先生(1903~1969年)の誕生日でもある。いまでは、同時多発テロで有名になってしまったが…。いくつもの9・11がある。

 さて、唐突だが、スピルバーグ監督の宇宙戦争、世界戦争は、えげつない。あからさまに9・11テロを思わせる映像をこれでもかこれでもかと突きつけてくる。見終わったあと、人間が不思議な生き物に見えてくるほど、殺戮の嵐を見せつけられる。横で見ていたおっさんが席を立ち、途中で出ていってしまった。劇場は閑古鳥が鳴いている。登場人物の少女に、これはテロ?というセリフがあったり、ヒロシマなんてセリフがあったり、スピルバーグにしては、微妙な配慮、感性に欠ける作品である。スピルバーグにしても、ヒロシマへの認識については、そんなにないことがわかる。「死んでも生きる」というセリフが、結末を示唆しているのだが、このセリフにしても、イラクやアフガニスタン等々で殺戮を繰り返している米兵への手向けの言葉として受けとめられる可能性がある。今回のスピルバーグ作品は、彼最大の駄作、あるいは、スピルバーグ版地獄の黙示録として制作されたのだろう。

 あいかわらず、日常性を演出する技は、憎いほど。トム・クルーズがふつうのおっさんに見えるシーンがあるので、この点は評価できる。とにかく町ごと破壊してしまう映画である。受け狙いになると、どうしてこうも堕落してゆくのだろうか。前作の空港を舞台にした映画も、まるごとセットをつくったが、今回も町のセットを丸ごとつくってしまったのか。ハリウッド映画の行き詰まりを示す作品である。話は全然違うが、自民党政治の行き詰まりと合わせて、感慨ひとしおである。

 アメリカという国は、インディペンデンス・デイにしても、この宇宙戦争にしても、火星人来襲にしても、外敵に対して異様に盛りあがる国である。いわば、アメリカでヒットする定番の作品が、こうした宇宙人来襲もの、外敵からの攻撃ものである。この状態の中では、共和党も民主党もない。アメリカ在住の知性ある人々の間では、いま民主党の情けなさについて、例えば宗教についての情けなさ等々が語られる。共和党はいうに及ばず、政府民営化の党であるからして、二大政党というものの、空疎さは、アメリカを見れば一目瞭然といってもいい。

 スピルバーグには、いつも「神」の視線を示すシーンがある。俯瞰するシーン。意外とああいうシーンも、宗教でおかしくなっている米国人にはウケルのだろう。カネをかければいい映画ができるなんて大間違いである。

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2005/08/01

恐怖の大王は降りてくるか

 あ~8月がやってきた。涙が出てくる。汗が噴き出す。
 さて、解散・総選挙はあるかどうか、というのが日和見族のもっぱらの話題なのだが、そんなことはあるなしにかかわらず、九条改悪派を包囲していくために、私にできることは何かを考えなければならない。

 九条の会の有明コロシアム(このコロシアムという響きがなんともミスマッチなのだが)での集会で、三木、鶴見、小田、奥平、大江、井上各氏の講演を聞いた。澤地氏のビデオメッセージも。各氏の訴えは、9500人の参加者を前にして堂々たるものだった。「ヒロシです」のギャグを援用した大江氏をはじめ、それぞれ、準備し、この集会にのぞんでいることはわかった。とくに、大江氏が詩人ゲイリー・シュナイダーの詩のhelpをchangeに置き換えて詩を朗読したときは、圧巻だった。文学とは、およそ無縁な巨大空間に、天使が舞い踊り狂うイメージが湧いた。病的な言い方をすれば、そのとき有明コロシアムにはミューズが降臨したのである。大江流「新しい人よ眼ざめよ!」の九条の会ヴァージョンだったのである。

 最近の大江氏の講演の流儀は一貫していて、最後の言葉、しめくくりの言葉へ向けて邁進、突進していくタイプの話に磨きをかけている。しかも、それが見事にはまるのだ。おそらく、大江氏は、一番いいたいことは何かを絞りこむようにして、講演を考えているはずである。それは、講演の組みたてとしては正統な考え方で、常識的なものであると思う。見逃してならないのは、大江氏も、この1年間、語りかける講演に磨きをかけてきたということである。
 文学の講演でも、大江氏は、最後の1行に向かってゆるやかに、用意周到に進む。それは、大江氏なりの引用、解釈、批評、さらには自分が語ったことの語りなおし(文章でいけば推敲にあたる)などなど、細かい技を、次から次へと繰り出すのである。例えば、大江氏が野上弥生子を語ったテープを聴いてほしい。

 また、大江氏が「沖縄ノート」をめぐって提訴されたことにたいする、最初の公式コメントが、この有明コロシアムでなされた。大江氏なりにニュースも用意していたのである。新聞各紙は、意外にもこのことを書かなかった。本当に意外である。ノーベル文学賞の受賞者で、これほど、アクティブに活動している作家は(ほかにもいるかもしれないが)、いるだろうか。ノストラダムス世代(幼少期に1999年の恐怖を植え付けられた人々)に属する私にとって、「見るまえに跳べ」の大江氏の「持続する志」をライヴで見聞できたことは、幸せな時間であった。
 未来の範疇に属する、「思わぬ変化の仕方」という楽しみを、忘れないようにしたい。

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