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2005/06/30

欲望に忠実になるだけか

 20世紀から21世紀にかけての日本国という領土に住む人の態様の変化を一言でいうなら、みずからの「欲望」に極端に忠実になってきたことだろう。「恥」という文化からの脱却と特徴づけることができるように思う。

 昨日(29日)、午後11時台の電車内の座席で、缶入りのポテトチップスを大事に抱え、一枚、一枚あじわって食べる20代の女性がいた。ここは、異論があるかもしれないが、どうみても、そんなことをするタイプではない。脳が破壊されたのではないかというぐらい、ポテトチップスを食べることに熱中している。「別に、電車で菓子を食ってもいいじゃん」という声が聞こえるが、子どもでも家で午後11時に菓子を食うことは異様である。まあ、大人の場合、自宅や店でつまみ的に菓子を食うことはあるであろう。それでも、電車内は多くの視線にさらされることになる。多くの視線にさらされることが「恥」を生む。

 しかも、妙齢の、いわゆる結婚前の女性にたいする視線は、かつては厳しかったように思う。確かに、それは、不自由な生活を、といっても、その不自由さは、貧しいこととは別で、「振る舞い上の不自由さ」を示していた。結婚を意識しない、結婚を望まない女性は、いまや、多くの視線を意識しなくていい存在となった。みずからの欲望に忠実であることを、妨害されなくなった。家の中と外との境界線が希薄になったと言い換えてもいい。

 前から有名でもあるが、昨日(29日)も、電車内で化粧をする人がいた。その人の化粧は、とにかく、一から構築していくタイプで、本格的である。口紅に到達するまでの工程は、目の前に立っている人間の視線など、ものともしない。一部分の化粧なら「修正」ということで、見なれていたように思う。それと、今回のは違っていた。歌舞伎役者の化粧なら、一度はナマで見てみたいと思うが、ただ、ちまたに流通する顔に化けるための化粧など、いまさら見たいと思わない。が、眼前で展開される化粧芝居をかぶりつきで見たら、なぜ、化粧をするのかという本質的な問いに至るきっかけを与えてくれるほど、すさまじいものであった。子ども時代に、母親の化粧する姿を垣間見たのと、似たようなことがある。私の妻がほとんど化粧しないので、「刺激」に弱いのかもしれないが…。

 恥を忘れたのは一部の女性だけではない。男は、とうの昔に恥を忘れた。というか、そもそも恥など知らない。東京都で豪華海外視察をして開き直る自民、公明、民主なども、みずからの欲望に忠実になって、税金を費消している。そんな恥知らずな人間たちを、選ぶ方も恥を知らない。せめて、恥知らずな人を選ぶのを恥ずかしいと思う人が増えることを望みたい。

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2005/06/28

サラリーマン増税

 サラリーマン増税について、自民党が大慌てである。タイミングの悪いときに発表したものだから、総務省にやつ当たりしている。
 ただし、消費税増税へ誘導するための戦略という説もある。年30万~50万の大増税をされるぐらいなら、消費税増税の方がマシだと思わせる戦略である。しかし、どちらも容認できない。
 マンションを買ったときの、消費税の馬鹿馬鹿しさよ。一体、何を消費するのか。カネを使えば使うほど、汗水たらして働いた労力の結晶・カネを消費すればするほど、その人が貧しくなる税金があるなんて、モノを買わなくなるのは当たり前ではないか。
 労働者=消費者という定義で、消費税を推進してきたものたちが、今度は、労働者=債務奴隷という定義で、サラリーマン増税を遂行しようとしている。働けど、働けど、税金にもっていかれるなら、だれが働こうか。アホらし。何度でもいおう。国の借金を増やしてきた元凶は、自民党や公明党、旧社会党、旧民社党、旧自民党たる民主党の一部、社民党、地方政治与党でもある市民ネットにある。豪華海外視察で、海外で盛んに税金を消費してきた政治家たちは、その税金を返却してほしい。

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2005/06/27

4005年の世界

 2005年から2000年後の4005年は、どういうことになっているか。今が、当たり前と思わないためにも、未来や過去に思いをめぐらしたい。

 何が残り、何が残らないか。まず、そういうことを考える。いま、流行しているものは、ほとんど残らない気がする。芸術的なことは、少しは残るだろう。東京の湾岸開発の建物群、ヒートアイランドの元凶になっている建物群は、消えているだろう(これは願望というか、希望)。2005年の人たちは、なんて馬鹿なことをやっていたんだということになるだろう。しかし、過去の人間が、ツネに馬鹿であるとは考えない。歴史には、後退がある。

 やはり、人間は、宇宙へ飛び出しているだろう。4005年版「飛び出せ青春」である。村野武範さん演ずる教師みたいなのが、いて、宇宙船のなかで奮闘しているかもしれない。

 占いなんて、意外としぶとく生き残るのかもしれない。宇宙占いとか。なぜ、占いがしぶとく時代を超えてゆくか。それは、未来が不確かなものだからというほかない。問題は、「未来」が、わかるとか、わからないという範疇のものか、どうか。あらかじめ未来がわかってしまうのなら、だれも、苦労しない。わかってしまえば、いわゆる「人生」というものは、規定路線の上を走るだけである。面白くなくなる。結論からいうと、未来は創り出すものだから、面白いのである。占いは、未来を創り出す地点からは程遠い。それは、未来を知りたいという好奇心の産物でしかない。あと一歩なのである。

 未来を知るためには、過去を知らなければならない。いまだに、ギリシャや中国の古代の哲人たちを上回る「現代の賢者」は、少ない。戦争を生業とする人たち、いわゆる戦争請負産業の隆盛は、人殺しを仕事にするのとなんらかわりない。殺人を仕事にすることが、合法化された社会が、これ以上はびこるとすれば、アウシュヴィッツ以後の野蛮は、やはり進行していることになる。通俗的な哲学者たちは、いまだにこの問いには答えていない。

 4005年の世界では、少なくとも、人間の遺伝子については完璧に解読され、それをもとにした医療、教育制度なんてものがあるだろう。それが、差別的なものになるか、どうか。ナチス的なものになるか、どうか。アドルノ先生(1903~1969年)に聞いてみたかった。どの因子がどう作用して、こうなるなんてわかることになる。

 しかし、人間の性格、病気も、実は固定的なものではない。「変化」の相というものがある。変わる可能性があるから面白い。遺伝子に関心を示す人は、遺伝子にも突然変異があることを織り込みずみで、関心をもっているのだろうか。そういう人もいるだろう。しかし、大方の人は、遺伝子によって、自分の肉体(頭脳も含めて)がかなり決まってしまっていると絶望的な気分をもっている人もいるのではないか。

 なぜ、そんなことで絶望するのか。絶望しないために、文学精神というものがあると思う。あらゆるものを楽しむといったような…。苦難の人生を楽しむ人間がいるところに、少なくとも未来は、あるだろう。

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2005/06/22

所得税増税という名のツケ回し

 しかし、政府税制調査会というのは、なんの権限があって、次々と馬鹿げたことがいえるのだろうか。憲法上の規定からすれば、なんの位置付けもない無責任な人たちの会合である。そんな人々が、消費税増税とは別に、配偶者控除を廃止したり、カネカカリ盛りの子どもの扶養控除といった部分を廃止するよう「提言」を出した。それも、国の莫大な借金を減らすためだというから、開いた口がふさがらないではないか。一体、国の莫大な借金は、誰がつくったと認識しているのか。

 自民党や公明党の代わりに、国の借金返済のプランを練るのなら、政府与党機関と正々堂々と名乗ればよい。あくまで、国権の最高機関たる国会で決める「国の借金返済プラン」を、国民への大増税というかたちで、いけしゃあしゃあと「提言」できる無神経さには、政府の調査機関という欺瞞的、謀略的、挑発的、策術的、密議的の本質が表れたといってよい。

 結婚しない人たちが、増えたから、さしたる影響などないと思っているのか。子育て世代が減っているから、さしたる「被害」など、ないと思っているのか。単純に見積もっても、年間17万円以上、30万円以上の増税になる可能性がある。NHKのニュースの「見だし」を見れば、「所得税増税、景気に配慮も」だそうである。一体、景気の何が、持ち直しているというのだろうか。

 このままでは、ますます子どもを産まない人々が増え、自殺者も激増するであろう。右翼的なセリフを口にすれば、「政府税制調査会は、解散せよ!」だ。

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2005/06/18

195人が過労死・過労自殺

 去年1年間に、150人が過労死、45人が過労自殺と、NHKが18日午前零時のニュースで報じている。氷山の一角のような気がするが、まだまだ、日本は働きすぎ社会である。年間3万人の自殺者がいる社会というのは、あらためて、すさまじい。小さな村が、一つずつ消えている計算である。過労死は、50代の人が多い。いわゆる働き盛り世代の範疇に入る人々である。こんなことを、いつまでも放置していて、いいのか。

 国会は、会期延長で、郵政民営化法案をなにがなんでも成立させたいらしい。そんな法案が、なぜ、いま緊急の課題なのか。ライブドア対フジテレビの問題と同じく、外国資本をもうけさせる狙いが、郵政民営化にもある。300兆円におよぶ郵便貯金が、都市銀行などに流出するだけでなく、外国資本系にも、そのカネがながれてゆくことを、ほくそえんで、待っている外国人投資家がいる。カネ転がしで儲ける金融資本家が、どれほど、暗躍しているか。彼らもまた、人格化された資本であるかぎり、利潤追求の運動をやめようとはしない。

 肝心なのは、資本家に最終的な決定権を与えない社会づくりである。BSE問題も、牛肉を売りつけたい人間の、安い牛肉を使ってジャンクフードを庶民に食わせたい人間の、あるいは、確信犯的に、BSEを蔓延させようとしている人間の問題である。利潤追求の結果が、どのような結末を迎えるかは、いまさら、JR西日本の例を引くまでもない。イラク戦争ですら、武器製造会社、石油資本の利潤追求の掌中にある。アメリカ政府自体が「民営化」されているとは、西谷修氏の指摘だが、まさに、世は、民営化、民営化で、最悪の社会体制を迎えようとしている。

 過労死の話にもどろう。長時間過密労働で、労働者の肉体からエネルギーを搾り取るだけ、搾り取る結果が、これである。すでに、19世紀のドイツ人、カール・マルクスが、『資本論』で、資本主義体制のもとで、剰余価値の追求、利潤の追求が、どのようなかたちでなされるかについては、詳しく解明している。資本主義とは、人間の肉体、精神を、ボロボロにまで酷使する社会体制を好む。ニートは、そのような社会にたいする消極的、ネガティブな抵抗ともいえるのではないか。ひきこもりと、一言でいうが、弱肉強食型の仕事が増えている。東京における終電車内の異常さは、この十年間で、なにも変わっていないことを示している。

 労働者を働けるだけ働かせる長時間労働は、そもそも資本主義の初期における野蛮な搾取形態だった。ヨーロッパでは、労働者によるたたかいで改善させてきたが、日本は、労働時間に関するILO条約について、いまだに批准していないなど、世界的にも遅れている国である。

 少しずつでも、いいから「抵抗」していこう。金融資本家のいいなりになるな!

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2005/06/14

ブロガーの知的世界

 「アドルノ的」もブログ開設1周年。ナベツネにはじまり…ナベツネに終わりそうな1年だった。ほとんど更新できず、情けない日々をおくっている。
 
 やはり、映画、音楽、スポーツの話題は、ブログでも盛りあがる気がする。これがW杯大会が近づくと、もっとサッカーの話題へ移行していくでしょう(ブログ論壇状況の予報)。

 ホリエモンの話題では、ずいぶん長い期間をすごした。人格化された(金融)資本のふるまいに、ほんろうされた1年だったともいえる。ブログの隆盛とホリエモンネタとがかぶっていて、得をしたのはライブドアというところだろうか。ライブドア対フジテレビで一番もうけたのは、外国資本だったのだから、そうともいえない。

 BSE問題は、すばらしいブログのおかげで、いろいろと「世間」が見えてきた。阿部謹也氏いうところの「世間」とたたかわなければ、歴史は見えてこないのだ。アメリカの牛肉を、なぜ、こんなに大騒ぎして食わなければならないのだろうか。いま一度、頭を冷やしたい。

 ジャーナリスト系のブログは、新聞・テレビを見聞きする上で、とても参考になる。ブログを書くこと自体が、落ち穂拾い的なところがあるように思う。例えば、東京脱力新聞の上杉さんは、雑誌等にルポ・記事を旺盛に書いておられる。たくさん書いてもなお、ブログに書く。すばらしき哉。脱力してもなお書く。これぞブログ道なのかもしれない。

 イラク戦争の現状も、ブログ言論に如実に反映していると思う。しかし、テレビの取り上げ方は、実にそっけないものになってきている。NHK問題も、ブログ言論の隆盛に拍車をかけた。

 あと、話はまったく違うが、子育てネタというのも、ひそかな執筆テーマだった。ブログ版エミールを試みようとしたのだけれど、とても、そんなものは書けない。初志貫徹とは難しい。というか、持続できないことが情けない。子育て仲間もいたのだが、最近は、とんとご無沙汰してしまった。どうしてますかー。

 アドルノ先生(1903~1969)の本を読んで、1年をふりかえることにしよう。

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2005/06/11

足を踏まれた者は忘れない

 よく、「足を踏まれた者は忘れない」という。あれは本当である。つい先日も終電車のひとつ前の電車で、女性に足を踏まれた。しかも思いきり。ヒールのかかとで。踏んだ人間の顔もくっきり覚えている。

 どう考えても踏まれそうにない足の位置だったのに、踏まれた。うらみがあるような踏み方。隣に座る際、グラッとなって踏んだという感じではあるが、しかし、踏むには、そうとうな「飛躍」がある。

 どうも若造が座っているので、けしからん的な見方をされているのではないかと被害妄想がふくらんでいる。自分でいうのも、なんだが、童顔なので、年相応にみられない。

 踏んだ側は、「あっ、すみません」などといってすましている。あまりにも痛いので、「気をつけてください」と注意すると、「謝ったからいいでしょう」ともいう。ずきずき足が痛んでくる。へたをすれば、本当に足の骨にヒビが入るかもしれない。それぐらいの踏み方だった。

 実は、いまだに足に痣ができている。運が悪いとか、運が良いとか考えないようにしてきた。だが、最近、いやなことが多い。偶然に足を踏まれることと、偶然に殺されることと、その差は歴然たるものだが、中国の人たちが日本軍の蛮行にたいして、簡単に忘れたり、許すことができるとは、到底考えられない。足を踏まれただけでも、私のように執念ぶかい人間は、忘れない。忘れられるとすれば、それは、「ぼけ」のはじまりではないかとさえ思えてくる。
 
 総理大臣の「ぼけ」は、深刻だ。自殺者が年間3万人もいるのに心が痛まないらしい。靖国神社に参拝する意味すらわからない。郵政民営化の一つ覚え。ラーメンばかり食う。BSE問題でもブッシュの言うことしか聞かない。おっと、執拗に誰かを非難しつづけるのも、「ぼけ」の始まりかもしれない。少なくとも、BSEの影響か何かしらないが、呆け人間が増殖していることは確かである。

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2005/06/08

ガセネタ

 ガセネタとしての「旧日本兵」報道。産経新聞は、「謝罪文」を出したそうだが、なにをかいわんや。検証報道を徹底的にすべきではないのか。「旧日本兵」という用語についても、一部、異論がでた。扶桑社を傘下におさめるフジ産経グループだから、「新しい歴史教科書をつくる会」の活動に役立つ事件・事故については熱心に報道する。今回の「旧日本兵」報道も、「お国のためにたたかった」「日本軍兵士」は「悪くない」「それを攻撃するのは非国民だ」という思想が、根底にある。先入観をもつことが、報道を歪めてしまう。その例である。
 また、いまの自衛隊が、「新日本兵」「新日本軍」になりつつある中での状況が、今回のガセネタに影を落としている。

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2005/06/06

我々の知らないこと

 アフガニスタンとパキスタンとの国境付近で医師として活動されている中村哲さんの姿は、宮崎駿のアニメに出てくる賢明なる役柄にだぶる。しかも、自然なユーモアがある。偉い人に漂う、このユーモアこそ、文学作品で描いてほしいところなのである。まあ、自分で書けばよいのだが、簡単には書けそうもない。

 平和の具体的なイメージが、中村さんの活動から、素直に伝わってくる。たとえば、平和の基礎は水であるというような、ギリシアの哲学者を思わせる言葉によって。
 アフガニスタンの大干ばつは、想像を絶する規模だったらしい。日本のマスメディアでは、このことは、ほとんど伝わらない。また、アフガニスタンは、山岳地帯の中にある。木曽路はすべて山の中であるとは、島崎藤村の作品の言葉だが、アフガニスタンもまた、すべて山の中である、ということらしい。山の岩肌にはりつくようにして建つ民家の姿は、鳥類の棲みかではないかと、みまごうばかりだ。そのような民家が一般的だと聞いて、さらに驚いた。

 涸れた土地が、水路を建設することによって、豊かな緑に変化してゆく光景。これこそが、この時代の平和の具体的イメージだと思う。平和とは、きわめて具体的、かつ、粘り強い活動を必要としている。そのことを、教えてもらった。

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2005/06/05

ナベツネ帝国の逆襲

 ナベツネこと渡邊恒雄が、讀賣ジャイアンツの役員、取締役に復帰する意向だという。なんたることか。このニュースを目にしたとたん、スターウォーズ 帝国の逆襲のテーマ曲が、頭のなかで鳴り響いた。

 せっかくセ・パ交流戦で、少しは、息をつき、千葉ロッテマリーンズの好調なこともあり、うむ、なかなか良い線いっているではないかと思っていたら、この始末だ。時折、目にするプロ野球ニュースの、スタンドがガラガラなことといったら、情けないばかりではないか。高村光太郎のボロボロなダチョウの詩が頭をよぎる。

 思いだそう。ナベツネは、プロ野球に天皇杯をつくろうとしている男である。カネの力で選手を集めて、はばからない男である。リハビリ中の長嶋さんを、マスコミにさらした男である。武田泰淳が生きていたら、ナベツネは生き恥をさらした男であると、書いたであろう。

 10カ月でオーナーに復帰するのか。ナベツネ退陣という、あの21世紀の喜ばしいニュースはどこへいったの。黄金の花(沖縄民謡)が頭の中で、演奏を開始する。はあ。

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2005/06/03

半島を出よ・その後

 東京都内に住む、将来有望な作家から、『週刊新潮』6月9日号に、福田和也氏が、村上龍氏の『半島に出よ』を批判していると、教えていただいた(どうも面妖な文章で申し訳ない)。

 福田和也氏といえば、複数の反動総合雑誌で、カルピスを薄めたような連載をつづけておられる、いわば江藤淳の後継者と目される文芸評論家である。慶応大学で教鞭をとっている。

 くだんの『週刊新潮』を一読、二読して、大いに共感してしまった。これは、一体、どういうことなのか。村上龍氏の、今回の作品に限って、福田和也氏が指摘するとおり、「作品のリアリティが完全に破綻している」。
 前にも指摘したが、巻末の参考文献は、「これだけお勉強しましたよ」と村上龍氏も、どこかで書いているだけにすぎないものである。小説家の流儀ではない。明らかに「こけおどし」である。

 「ダレ場がかなり多い」という指摘にも、大いに首肯した。どうも、あの小説を読んでいない人が、絶賛の嵐を繰り返しているような気がしてならない。おそらく、上巻の途中で放りだし、もしくは上だけを読み、下巻の巻末ぐらいしか読んでいないのではないか。各紙誌の書評を目にして、そう思う。「ダレ場」だらけの、水ふくらまし小説が、なぜ、リアリティがあって、圧倒されるという評価にいたるのか。

 村上龍氏の小説は、吉本隆明氏がいうように、『村上龍料理小説集』が最高傑作なのだろうか。次回は、村上龍氏の異常な想像力を発揮した小説を、読みたいものである。異常な生活をせずに、異常な想像力を発揮するということこそが、本当は、いいのだろう。異常な生活をして、異常な文章を書くのは、実は、ふつうの平凡な小説家にすぎないのではないか。村上龍氏に問うてみたい気がする。
 

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