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2004/12/31

ある「市民」が誕生するまで

 サーヤこと紀宮清子さんが、黒田清子さんとなって戸籍をもち、参政権をもち、納税の義務をもち、職業選択の自由をもつまで、来年の秋までかかる。改めて、生まれながらに一市民であることの大切さを噛み締める次第。
 しかし、サーヤは、黒田姓を選ぶしかないし、天皇になる権利はなくなる。天皇家が黒田さんを婿養子に迎える選択肢もないのである。
 現在の皇室典範では、女性は天皇になれないけれど、「女性天皇」論議が進行する時期だけに、サーヤには将来、天皇になる権利も「取得」する可能性があった。宮内庁による「キャリアと人格否定」を咎める皇太子発言も、象徴天皇制という名の人権侵害、人体実験を反映したものかもしれない。人類学者、心理学者から見ると、天皇家は、貴重な観察の対象になる。遺伝か、はたまた環境か、などなど。人権に反する象徴天皇制の実像が、もう少し議論されてよいと思う。
 有吉佐和子さんが小説にした「和宮様御留」では、徳川第14代将軍との政略結婚を強要された皇女【親子(ちかこ)内親王】の姿が描かれていた。ニセ有栖川宮で有名になった本当の有栖川宮と「婚約」していたにもかかわらず…。ヨーロッパでもハプスブルク家などは、政略結婚だらけ。マリー・アントワネットも外交の道具にされた。結婚は、王家の勢力拡大に利用されていた。
 大企業の御曹司らに娘を嫁がせるような政略結婚を画策しているのは、おもに自民党の政治家たちだった。そんな人たちが、国会で人権を論じている。いまに、象徴天皇制を理由にして、9条改憲を迫ってくるかもしれない。要注意。

 それでは、よい年をお迎えください。

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2004/12/30

安全な場所はあるか

 職場のみなさんとも、「安全な場所ってあるのか」と話しあう今日このごろ。そして、結論は、「ない」に落ち着く。
 「安全」とは、とりもなおさず、命の安全が確保されるということ。しかも、偶発的な事件・事故からも干渉をうけないこと。しかし、偶発的でなくとも、自然や人間社会に必然的な出来事はあるので、その意味からも、「安全」とは、時間・空間的に、地球上で、一定の、見かけ上の「安全」を指すにすぎない。
 宇宙的・地球的スケールからすれば、ほんの一瞬のような「安全」かもしれない。その一瞬の「安全」に、わが人生は左右され、仮託するしかない。
 仮に、人類の大半が、宇宙に飛び出すようになると、宇宙上の「安全」という概念が出現し、その「安全」も絶対安全ではない「安全」になる。定義づけが不毛なのは、「安全」の一事を見てもわかる。したがって、より「安全」な状況をつくりだすべく、われわれは努力するほかないのである。うーむ。

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2004/12/26

どんなクリスマス

 まあ、なんというか、西洋の商売の神さんちゅうか、えべっさんみたいなサンタクロースなんて、あんなアホな格好してたら、目立ってしゃあないで。なんで、そんなアホなことやめときって、だれも抗議せえへんのか。宅配ピザのお兄さんやらも、サンタもどきの衣装で走り回っているし、それを郵便配達のおじさんがじいーっと眉間に皺よせて見てましたわ。まあ、クリスマスいうたら、商売人が一番はりきるときやから、まあ、カリカリせんと、それを楽しめばいいわけやけど、なんか変や。
 25日も、終電車に、トナカイの着ぐるみ着たお兄さんが乗りこんできた。なんか危ないなあ。東急ハンズかなんかで買うたんかいな。着られるのは、クリスマスだけやで。大人があんなもん公共の場で着るようになったらおしまいや。仲間内で部屋の中で騒いでいるのならまだしも、電車なんかの「密室」ではねえ。サンタさんとセットやったら、まあ絵になるけど、トナカイだけちゅうのは、マヌケやね。
 山手線の新大久保駅で、またもや人身事故があったらしい。大体、駅のホームなんて、酔っ払って歩いていたら、落ちるに決まっている。簡単に命を落としてほしくない。それもクリスマスの深夜やで。堪忍してほしい。
 24日に、カルフールへ行ったら、フランス人の背の高いおじさんがサンタもどきに扮装して、飴玉を配っていたなあ。日本文化にクリスマスを祝う習慣なんて、いつ、だれが持ち込んで始めたんや。仏教も対抗して、なんかやらへんのかいな。まあ、仏教の方が物欲を戒めるところがあるので、華美にはならんと思うなあ。例外はあるけれど…。
 でも、ワインにカマンベールチーズは合うで。シャンパンなんていうのも、17世紀生まれのドン・ペリニヨンなんてフランスの修道士が開発したらしいね。日本の高野豆腐みたいなもんで、坊さんたちは、けっこう食いもんに関わるケースが多い。食うのも修行の内というわけやね。おかげで、体重がさらに増えてしもた。カルフールでも、鳥肉がたくさん調理されていたなあ。結局、クリスマスは、ケーキとチキンあるいは七面鳥とサンタとプレゼントとイルミネーションで構成されているわけや。鳥にとっては受難の日や。
 千葉県佐倉市には、クリスマスの電飾の激しい住宅街があって、見物人がわざわざ他の地域、他県からやってくるらしい。一番にぎやかな家は、その電気代だけで月2万円もかかる。台所の電気だけとか、最小限にしている。他の部屋の電灯をつけると、ブレーカーが落ちて、真っ暗になる。見栄もここまで来ると、悲しいね。
 以上、松屋で、やたら店員に水を要求する怖ーいヤンキーの兄ちゃん(誰が逮捕されたとか、捕まったら何年なんて話をえんえんやっている)を見て震えながら、クリスマスの夜食を一途に食べるカップルを見て、感慨にふけり、帰宅後、妻の冷たい目をよそに妄想を綴ってみました。要するに、クリスマスとは…。

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2004/12/23

NHK文化

 言葉を磨くとか、美しい語りなどは、もはや過去の習慣なのだろうか。NHKでも、名物アナウンサーがたくさんいた時代があった。
 名前だけで顔をあまり知らないのは、和田信賢さん(? 字が間違っているかも)。なんでも、名アナウンサーだったらしい。中西龍(?)さんだったか。名前は、まったくのうろ覚え。でも、あの途切れ途切れの癖のある朗読は、強烈。相川アナウンサーも、やさしい語り口の風情がよかったし、山川アナウンサーは、歌舞伎の研究者、愛好家としても有名で、口跡に研究の成果が表れていた。そのほかにも、たくさん、いいアナウンサーがいた。現在では、プロジェクトXの国井さん(?)だったか、声が渋いし、彫刻刀で彫るような声で、ドラマチックな語りには力を発揮する。
 加賀美幸子さん(?)は、NHKアーカイブスで、いまも現役。低い声で、落ち着いた語りは、さすがだと思う。声をわざと低くして、水が流れるようにニュースを読む森田美由紀アナウンサーもすごい。
 インタビューものでは、斎藤アナウンサーが、安心してみていられた。とにかく、NHKには、凄腕ならぬ凄口のアナウンサーがいた。そういう良い面が、最近見られなくなっているのは残念だといいたい。テレビ人間には、日本語は、NHKのアナウンサーがお手本だったのだ。大江光さんが、初めて発した言葉、「クイナです」も、NHKのアナウンサーの言葉の真似だった。
 日本テレビ系、ザ・ワイドの草野アナウンサーは、NHKから民放に移って、フリーになった今も、光っている。下品な話題でも、下品にならない技をもっている。しかも、体も相当鍛えているのである。おそらく、NHKにいたときに鍛えたことが、財産になっている。しかし、今、本家のNHK文化そのものが、崩壊しつつある。そのことが、残念だし、なんとかしてもらいたいと思う。

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2004/12/21

救済という観点

 今年は、アドルノ先生(1903~1969年)にとって、ドイツ以外の国で、再評価されはじめた年になったのかなあ。
昨年が、生誕100年だったので、ドイツでは、アドルノ先生関係の本がたくさん出た。1年おくれて、イギリスでも、アドルノ先生についてのまとまった紹介本が出た。エドワード・W・サイードの影響かなんか知らんけれども、大江健三郎さんが、『新潮』新年号で、死者サイードへの手紙で、アドルノに触れている。音楽をよく理解する哲学者、作曲もできる哲学者だから、大江・サイード・アドルノ、そして吉田秀和(アドルノを翻訳したことがある人)とつなげてみたい気がするけれど、これまた、大仕事。

 「絶望に直面しながらもなお、責任をもって遵守されうるただひとつの哲学とは、あらゆる事物を、救済という観点からみたときにそれらが呈するであろう様相のもとに眺めわたすことである」(アドルノ『ミニマ・モラリア』)

 眺めわたすだけでいいのかなあ。とはいえ、鬼の仮面をかぶった人たちを作り出すシステムを、よーく考えてみなくてはならない。

 アドルノ先生による同一性と非同一性の提起は、いまも有効だと思う。ミニ天皇よろしく権威主義的パーソナリティーはびこる現代日本だから。

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2004/12/20

傲慢NHK会長が辞めない理由

 案の定というべきか。19日午後9時から11時15分まで放送された「NHKに言いたい」は、視聴者を愚弄した番組だった。海老沢勝二会長という人物が辞めない理由はハッキリした。みなさまのNHKなどといいながら、まったく国民など眼中にない人物なのである。NHK会長を選ぶのは、「みなさま」ではなくて、内閣総理大臣らである。だから、彼、海老沢会長は辞めないのだ。NHK経営委員会には、会長の任命権、罷免の権限があるのに、それを行使しようともしない堀部某などというエセ・マスコミ学者の無能ぶりにはあ然とさせられた。所詮、政府から任命された者たちであるから、そのようなものたちに期待するほうがオカシイのであるが…。プロ野球におけるコミッショナーの無能ぶりと引き比べてみれば、体制癒着型組織の機能不全ぶりは明らかであろう。
 ちなみに、我が家は、受信料を払っている。とことん、視聴者の権利を行使させてもらうことにしよう。

 あきれたのは、番組に登場した多くの「識者」とやらが、財界のイヌたちで大半を占められており(田中直毅、笹森清、北城ら)、NHKのことを知らない人物(日和佐信子)らに、視聴者の代表であるかのようにノウノウとしゃべらせていたことである。鳥越俊太郎氏と今野勉氏は、それなりに奮闘していたが、今野氏など、田中直毅からバカにされる始末である。NHK会長の責任問題に突入したのが午後10時。今野氏が、かつて核戦争後の地球を放映したNHKを高く評価し、最近のNHKの番組にはそうした良質の番組が少なくなっており、そのこと自体が国民から批判されているのだと指摘したところ、田中直毅は、「問題が違う」などと、火消し役を演じていた。今野氏の指摘に対して、海老沢会長は、うなずきもしなかった。田中直毅は、経済評論家などという肩書きを掲げているが、財界シンクタンクの所長を務めており、そのような「公平」ぶった肩書きを名乗るのは、おこがましいかぎりである。あのような人物が、司会をしていたこと自体、まったく番組の公平性を欠いていた。なんとも偉そうであるので、余計に腹が立つのである。
 番組本来の構成としては、NHK職員の労働組合たる日放労の代表が参加し、各政党から代表が参加し、公募で選ばれた視聴者代表らが参加すべきなのである。ふつうに考えれば、当たり前のことである。ところが、NHKは、ふつうではない。
 番組に寄せられた8000件を超えるファクス、メール、電話などから、恣意的にその一部しか放送せず、しかも、街頭のインタビューと称して、これまた恣意的な編集を加えた映像しか流さなかった。
 鳥越俊太郎氏から、「あなたは経世会担当だったですね」といわれて、慌てた表情を見せ、「そんなこといわれたら、何もいえなくなる」といった海老沢会長の姿を、よく覚えておこう。近来まれに見る悪役の姿を。

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2004/12/19

宮様のNHK

 94歳の漢字学者、白川静先生が、毎日新聞夕刊(13日付)で、テレビ番組に関して鋭いことをいっておられた。
 「先生、どんな番組をご覧に?」と記者に尋ねられて、白川先生は…
 「ニュースくらいかな。実につまらん。どのチャンネルを回してみても、見るべきものが少ない。戯れすぎる。内容のない歌を歌うているか、大きな口開けて食べているか、無責任な議論をして騒いでいる。国の政治を笑いごとにしたりして、不謹慎だよ。もっとつつましさをもって、内容の豊かなものでありたい。実のないものばっかりでは、子供の教育にもよくありません」
 子どもの教育によくないうんぬんの発言は、一般的だとしても、「内容のない歌」「大きな口」「無責任な議論」の三つは、いまのテレビ番組の特徴を、実に簡潔に言いあてている。さすが、偉大なる漢字学者である。
 「しゃーららららら、しゃーららららら、金色のライオン」なんて歌(長渕剛)は、幼児に読んできかせる絵本みたいな歌である。でも、それだけ、まだ、ほかの歌よりはマシな部類なのかも。
 また、グルメ番組も、実は、旅館やホテル、有名レストラン、食材の宣伝、紹介にすぎない。マンネリもいいところである。CMの延長線上にある番組でしかない。つまり、一切、それらの旅館、ホテル等への批判を許さない。
 無責任な議論も横行している。さぞかし、19日午後9時からのNHK番組も、無責任なものになるだろう。
 白川先生が唯一見るらしい「ニュース」も、18日は、前天皇の弟の嫁さんの死去の報道に費やされた。第15代将軍、徳川慶喜の孫が亡くなったからといって、公共放送の大半を使っていいとは限らない。新撰組の時代は、いうに及ばず、徳川の時代は、過去のものである。
 人の死に対しては、等しく、冥福を願うのみである。が、しかし、押しつけられてはたまらん。

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2004/12/16

NHK忠臣蔵

 19日に、NHKが、元プロデュ-サ-逮捕事件などの懺悔的特集番組(2時間枠)を放送するという。
 海老沢会長が、なぜ辞めないかについて、労組は、「わからない」そうだ。忠臣蔵(討ち入りは、15日未明らしい)でいえば、19日が、NHK労組の「討ち入り」のチャンスだが、さて、どうなるのだろう。国民からファクスやメールなんかも募集するのでしょうな。この番組で、海老沢会長が、一言、「辞める」といえば、ものすごく視聴率が上がるでしょう。たぶん、そうならないと思うが…。もともと、19日は、どういう番組が予定されていのだろうか。

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2004/12/13

ツボを押さえたテレビ番組

 読者、視聴者が知りたいところを、痒いところに手が届くように掻いてくれる風の記事、作品、番組、あるいは、読者、視聴者の気がつかないところを差し出してくれる記事、作品、番組は、作り手もまた、その作品の意味をよく知っているというべきでしょうな。
 三谷幸喜さんのNHK大河ドラマ「新選組!」(熱狂的な方は、新撰組と表記するようですが)、82歳の瀬戸内寂聴さんを登場させたTBS系列の「情熱大陸」は、見ごたえがありました。
 まず、三谷さんの力作、快作「新選組!」。幕末の、あれら若者たちの生き方は、歴史の本流と逆流の中にあって、どういう意味があったのかという一点に絞って最終回を組み立てていました。というより、三谷さんは、全編を貫いて、そのことを考えていたに違いありません。最終回には、如実に、その問題意識が露わになっていたというべきでしょう。野田秀樹さん演じる勝海舟が、珍しくNHK的な演出の枠を超えていて(実は枠内なのか?)、 べらんめえ調の勝を正しく演じきっていました。最終回は、近藤勇の頭の上に刀が振り上げられた場面(午後8時52分)直後に「完」の文字が出て、あとは、走馬灯のように過去が駆け巡る展開でした。このあたりも、大河ドラマの特徴をよくつかんだところでしょう。
 瀬戸内寂聴さんの「情熱大陸」も、テンポ、リズムよく、瀬戸内さんの人物像を、さまざまな映像で見せて行く編集の妙がうかがえて、久しぶりに番組プロデュ-サ-の力量に感服しました。この番組の面白さは、その人ならではの味わいのある言葉を探り当てていくところにあると思います(印象に残る言葉がない時もありますが…)。12日放送の番組でいえば、とげのついた「薔薇を摘め!」(文字通りの意味でなく、好奇心を発揮して、いろんなことに挑戦しよう)というメッセージを寂聴さんが伝えたところ。82歳にして、たくましい行動力を発揮する寂聴さんの秘密に迫る言葉です。おそらく、プロデュ-サ-は、この言葉に接したとき、この言葉をメーンにして、番組を組み立てようと考えたはずです。映像を中心にしたドキュメンタリーでも、視聴者は、映像を見て、言葉で考えています。なぜだろうか、と。そのツボをきっちり押さえていたように思います。ただ、徳島の瀬戸内仏具店の映像には驚きましたなあ。なぜか、瀬戸内さんの出家の意味が、あの仏具店の映像を見た時点で、俗なものに転換されてしまう効果があって、そこも面白かった。意表を衝かれたところです。

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2004/12/11

もう笑うしかない

 ネット上で、更新しない状態が長くつづくと、死んだも同然。つまり、「未更新=死」という関係が成り立つ。そういえば、風邪が長引き、自殺した某作家のホームページも、「絶筆」「絶打」状態のままである。おー怖っ! やはり、石田衣良さんの小説のように、膨大な想定問答集を残して、あたかも生きているかのように装うのか、はたまた、自動的にブログを生み出しつづけるソフト(つまり、ニュースに連動してコメントをつけていくようなもの)ができれば、「更新=生」であるから、ネット上では、生きつづけることになるのか。あー、あほらし!
  『文藝春秋』の新年号が、「理想の死」特集で、その広告を見ると、作家の古井由吉さんは、「もう死んでいる」そうである。同じく作家の北杜夫さんは、凍死が理想のようだ。なんとも、暗い、くらーい特集である。
 哲学的、生物学的には、すべての人間は、死への途上にある。亡くなったデリダ先生は、晩年、哲学的追悼文ばかり書いておられたようだ。不思議なのは、哲学的(観念論的)時間論は、いまだに、アキレスと亀みたいなものを論じている(いまだに難問らしい)点で、なぜ、宇宙と関連づけて考えないのかということである。
 宇宙の誕生と同時に、時間と空間が生まれた訳で、おおもとでは、われわれは、宇宙の物理法則から逃れられない。逃れられるのは小説家の想像力のみである。素粒子と格闘しておられる高エネルギー物理学者も、究極的には、宇宙の謎を探っている。しかも、「宇宙の死」については、だれも好き好んで論じない。宇宙の生を知らないのに、いわんや、なになにをや、なのだ。さらにいえば、宇宙の誕生以前について、何も知らない。とにかく、生きて、考えなければ、死はわからない。

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2004/12/05

もう懲りたNHK会長

 忘己利他(もうこりた)。みなさまのNHK、海老沢勝二会長の座右の銘だそうである。プロフィル
 忘己利他は、「もう懲りた」の洒落ではないのか。政府の仕事の一部を引き受け、半官半民的国営放送の会長を務める海老沢会長は、私人ではない。
 4日、7時のNHKニュースの終わりに、海老沢会長の釈明放送があった。7時27分から3分間。元プロデューサー逮捕の事態をうけて、海老沢会長のじきじきのお出ましである。すわ辞任か?の観測も一部にあったが、見事に肩透かしを食わされた。観測は甘かった。辞任どころでなく、「人間宣言」的な弁明に終始していた。
 しかも、公共放送の時間を独占しての録画放送である。彼には、番組を左右する権限があることを証明してみせたことになる。こちらの方が、よほど、問題である。
 自身は、どこかで、自分の録画放送を眺めていたに違いない。記者会見でない、一方的な謝罪放送で、何が改まるというのか。釈明も、ありきたりで、自身の責任については、まともに語っていない。カメラの向こう側にあるテレビと、その画面を見る国民を「同一化」して考えているのではないか。茶番会見で、だれが納得するのか。政治記者生活を通じての自民党とのつながり、ナベツネとの交遊…。公共放送を担う資格が、このような人物にあるのか。などなど、さまざま疑問がわいてくる。
 ギター侍も、しょうもない人物ばかり斬っていないで、少しは、権力を持つ者達を批判してみたらどうか。

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2004/12/04

アキハバラ@DEEP

 石田衣良(本名・石平庄一)さんの『アキハバラ@DEEP』は、エンタテインメント系の作品としては、力作だと思う。文章がリズムよく、サラサラと読ませる。お楽しみ文学の場合、この「サラサラ」度は重要である。
 画期的なサーチ・エンジンを開発したネットおたく達が、チームワークと友情を武器にして、IT成金とたたかう設定も面白い。しかも、自殺か、はたまた、事故死か、なぞの死をとげる人物が、ネット上に膨大な想定問答集をプログラムしていて、その人物を崇拝するおたく達と、死後の会話がなされる点も、卓抜なアイデアだと思う。大江健三郎さんの『取り替え子』における死者との対話とは、一味違うものになっている。
 今回の作品は、いわば、アキハバラを舞台にした、偶然と必然の物語である。石田さんの物語には、意外にも、「持たざるもの」への健康なマナザシがあるので、安心して読める。また、場所の設定が、物語では大事であることを、教えてくれる。
 

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2004/12/01

ハウルの動く城について

 おそらく、もう、いろんなブログで話題にされつくされたであろう宮崎駿監督作品の「ハウルの動く城」について、感想をのべたい。まだ、映画を見ていない人は、ここで、「戻る」をクリックしてくださいね。
 宮崎駿監督は、時代に敏感で、貪欲にあらゆる文化や世界に触手をのばすと同時に、つねに成長するアニメーション作家で、きわめて、ユートピア的な思想の持ち主である。確固たる理想の世界が常にイメージされており、その思想が、色濃くアニメに移し替えられ、定着させられている。しかも、浮遊感に「自由」を象徴させる作風も、一貫している。カリオストロの城におけるルパンの跳躍、天空の城ラピュタ、その他、枚挙に暇がない。
 また、「風呂」というストレス回復システムを高く評価していることは、「千と千尋の神隠し」につづいて、今回の作品を見ればわかる。最近では、顔なしにもこだわっている。これは、現代ビジネスマンへの痛烈な皮肉である。ファンタジーという形式は、甘い生地の中に、けっこう辛いものを包んでいる。辛いものを見たくない、食べたくない人間に、それを食べさせる上では、有効な表現方法である。もちろん、それだけのものでもない。
 ハウルの動く城に関していえば、「戦争」の時代を背景とし、ヨーロッパの都市、それも中世ヨーロッパ時代の町並みを舞台に、帽子作りを生業とする娘(ソフィー)の目を通して、ハウルなる魔法使いの「闇」と「病み」を描く。
 ここで、主人公のキャラクターづくりに難が生じるのである。
 おそらく、このヨーロッパを舞台にしたところが、外国の映画祭での評価が今一つだったところだろう。なぜ、東洋のアニメ映画作家が、西洋の中世都市の面影を残した町を舞台にして、魔法使いのアニメをつくるのか。まったく不可解である。帽子職人の部屋の描き方など、精妙を極めており、その取材力に関心するのだが、それは、そこだけにとどまっている。西洋の都市は、ローマ帝国の文化やキリスト教文化を地盤にして成り立っており、石畳の町にしても、たえず、修理、修繕、改修の工事がたえまなくつづけられた結果なのである。ここには、日本の都市、町並みへの批判が隠されている。しかし、スタジオジブリの取材力をもってしても、西洋中世都市の再現は難しい。が、西洋人にウケなくても、物語は、破綻していない。
 一見、ハウルは、美少年で、若い女性の扱いにもなれており、カッコイイ人物として描かれているのだが、その魔法、魔術を手に入れた理由に何か秘密があることを、「城」を動かす原動力、カルシファーなる火のお化け(?)が示唆するところまでが、第1幕である。もちろん、ソフィーが婆さんになる魔法を掛けられたところが話の起点ではあるが、それだけでは、物語を動かす力は弱い。あらゆる物語は、「謎」を提示することで、開始される。卑近な例をあげれば、ハリー・ポッターの額の傷、ロード・オブ・ザ・リングの「指輪」、村上春樹「アフター・ダーク」における眠れるお姉さんであろう。
 第2幕の開始は、王宮へ行くところ。すでに、この場面に至るまでで、19歳の娘が90歳になった世界を十分にわからせようとする「仕掛け」がたっぷりと至るところにちりばめられている。掃除を通して、ハウルの心の闇に迫ってゆく。羽根を枯らして帰宅するハウルの姿も、くたびれ果てたサラリーマンの姿そっくりである。なぜか、90歳のおばあさん並みの知恵をつけたソフィーが生き生きと大活躍する。老老介護の現実なんかも、ちゃっかり埋めこまれている。
 第3幕は、ハウルが、なぜ卓越した魔法を身につけるようになったかを、すでに恋心を抱くソフィーが知る場面である。ここで、もう、物語の終わりが見えてくるところが、少々物足りない。とはいえ、戦争を心の底から憎むハウルの姿は、それだけで実に感動的である。

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